月別アーカイブ: 2019年6月

【ベツレヘムの星便り】358号  聖書はどのように読めばいいのか?



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


2019/6/30                   358号


こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
いかがお過ごしでしょうか。
前回は、これから僕がキリスト教という枠組みの中で
お伝えしていきたい「無償の愛(アガペー)」について、
イエスの「汝の敵を愛せよ」という御言葉を引用して、語りました。
今回は、そもそも実際に聖書を手に取ったことがある方なら
どんな人でも感じたことがある疑問、
「そもそも、この分厚い辞書のような書籍の
どこから読めばいいの? どのようにして読めばいいの?」
という疑問に答えていきたいと思います。
新旧両訳聖書の総ページ数は、一般的に用いられている新共同訳では、
創世記からマラキ書までの旧約聖書39巻で1501ぺージ、
マタイの福音書からヨハネの黙示録まで、全27巻で480ページもあります。
つまり、新旧あわせて、2000ページ近い書物になるのです。
確かに、この文量に圧倒されて、
いくら前回お伝えしたように、「聖書は神様からのラブレター」だといっても、
いざ、さぁ読もうと思うと、おののいてしまいますよね。
というか、いきなり2000ページの書籍を何のガイドもなく読むことは
ほぼ不可能でしょう。
でも、安心してください。おそらくほとんどすべての人が
最初にこのハードルの高さを感じているのです。
そして、このように皆乗り越えていくのです。


▼聖書はまず「ざっくりと読むこと」が大事。


聖書を読む上で大事なことは、
とにかく一にも二にも、最初は「ざっくり」と全体をとらえるという方法をとることです。
簡単にいうと、まずは漫画から入り、
その上で、映像を使い、そこからようやく聖書自体に入る
といったプロセスが大事。
そうでないと、ほぼほぼ確実に挫折してしまうと思います。
これはかつて僕が占星術を教えていた時にも、重要な学習方法として、
同じことを伝えていたのですが、
膨大な量の勉強をするときには、細かい部分ではなく、
全体をざっくりととらえながら、徐々に徐々に部分を見ていという
「ゲシュタルト認識」をベースにした学習が大事なのです。
最初は荒い解像度から入って、そののち次第に解像度を
細やかにしていく感じですね。
一つ一つの要素を覚えていって、最終的に全体を理解して、
ひとつの意味を見出そうとする
「要素構成主義」という勉強方法では、どこまで勉強しても、
なかなか全体像は、頭に入ってきません。
日本語も、辞書で「あ」から順番に覚えていないですよね。
英語もなんとなく「ハロー」から始まります。それと同じです。
またそもそも日本人の文化と全く異なる地域のストーリーなので、
そもそもどんな服装をしていたか、どんな気候なのかなど、
文字を読むだけだと想像がつきませんよね。
まずは映像や絵から入ることも大事なポイント。


▼聖書を、「読む目的」とは何か?
知らず知らずのうちに陥っている「完璧主義」を手放して、
気持ちがぐっと前向きになる。


そして、勉強方法よりもさらに重要なことは、
そもそも読む理由を明確にすることです。
理由もなしに、何かを続けて取り組むことは、苦痛でしかないですよね。
聖書を読むことは決して苦行ではないのです。
では、あなたにとって、どのようなメリットがあるのでしょうか?
それは、シンプルに言うと、
日々の生活の中における「完璧主義」から離れて、
そのままの自分でいいと思えるようになること。
そして、気持ちがぐっと前向きになり、
どんなことにもブレない自信と安心が身につくことです。
例えば、相手から責められているわけでもないのに、
なんか勝手に相手から責められているように感じて、
自己防衛的になったり、言い訳をしてしまうことってありませんか?
あるいはケンカした時に、素直に謝れなかったりすることってありませんか?
こうした時に、イエス様の愛を知っていると、
心を開いて人と関われるようになったり、
素直に謝れて、すぐに人間関係が良くなったりします。
また、僕が以前ずっとテーマとして扱ってきた
インナーチャイルドの癒し、機能不全家庭というテーマについても、
このイエス様において表現されたアガペーの概念無しに、
インナーチャイルドを癒すことは、ほぼ不可能ではないかと
長年の経験上感じています。
あなたは、両親のすべてを赦せますか?
もし、イエス様の愛を知っていると、
赦せるようになるんです。無条件に。
これってすごいことですよね。
さて、聖書の基本的な教えは、創造主の愛にあり、
またその愛に基づく赦しにあります。
特に新約聖書の中で一貫して伝えられているメッセージは、
イエスキリストを自分自身の個人的な救い主として受け入れるだけで、
この途方もない無償の愛のエネルギーの中に入れるということなんです。
そのために必要なもの。それは、ただただイエス様を信じること。
それ以外に、何の修行もいらないのです。
これを、新約聖書では、原罪の贖い、信仰義認、永遠の生命、
栄化と聖化といったような専門用語で語られるのですが、
先ほどもお伝えした通り、細かい部分をとらえすぎると
全体像は頭に入ってきません。
まず初めに大事なことは、「ざっくりと」捉えることなんです。
僕なりのシンプルな言葉で言うと、


聖書の世界を知って、イエス様を信じると、
それだけで不思議なくらい完璧主義だった自分が
人を赦せるようになったり、日々のイライラや焦りがなぜか自然と消えてしまう
といったことが実際に起こるということなんです。


つまり、実際に生活の中で、変化を感じるということですね。
最初の目的は、これくらいざっくりであることが大事ですし、
僕がこのメルマガで、あなたに感じてほしいことも、
結局突き詰めれば、これくらいシンプルなことなんです。
それが、「無償の愛」なのです。


▼ではどこから読むのがいいのか?


さて、この2つを踏まえた上で、実際にどこから読むといいのでしょうか。
それはとてもシンプルです。
イエス様が実際に活動をなさっていた約3年半にわたるご様子を
4人の聖書記者が別々の視点から描いている、
新約聖書の「四福音書」から入っていくと、とても分かりやすいです。
四福音書とは、
マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の
4つのストーリーです。
そして、今の時代とてもありがたいことに、
この4つの福音書を、超教派(特定の教派に所属していないグループ)
の方々が、すべて美しい映像を無料で公開してくださっているんです。
映画のようなクオリティなので、見ごたえがすごいです。
【マタイの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=s44IDy3emkI 
【マルコの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=YsAkNmbxc4U
【ルカの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=joqnK7A9dQM
【ヨハネの福音書】https://www.youtube.com/watch?v=fhAfypcxQ8Q
このいずれの映像も、地の文は、小説的に読みやすく訳された
リビングバイブルという書籍の翻訳と全く同じものになっています。
それぞれの映像が約3時間ほどあるので、全部で12時間と、
かなりのボリュームになるのですが、安心してください。
実際この四福音書は、お互いに重複する部分も多く、
ひとつの映像を見た後に、また別の映像を見ると、
いろいろな気づきがあるようになっているのです。
まずは、全体をざっくりと把握するという意味でも、
一番短いマルコの福音書(映像で2時間程度の長さ)
から見てみるといいのではないでしょうか。
ちなみに、四福音書を上の4つの映像で押さえれば、合計212ページ読んだことになり、
480ページある新約聖書のすでに1/2近くの文章を読み終えたことになります。
これもすごくありがたいことですよね。
また、映像で一気に見るにしても、2-3時間くらいの時間を確保しないといけないですから、
ひとまず映像を観る前に、漫画でざっくりと押さえるのもおすすめです。
僕が個人的に分かりやすいなと感じ、好きな漫画はこちらです。
30分から1時間もあれば読めると思うので、映像を見るよりも先にこちらを見たほうが
より理解しやすいかもしれませんね。
(なお、こちらの漫画はAmazonの読み放題サービスに入っていると、無料で読めます)
マンガで読む名作 聖書~福音書の世界~ 佐藤ヒロシ
https://www.amazon.co.jp/dp/B01ARO2AA6/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_R1hgDb41GT3X1


今日は主に、そもそも聖書はどこから読めばいいのか?
というテーマについて扱いました。
とにかく初めて聖書に触れる時には、最初はざっくりと、
全体像を掴むということがとても大事です。
また、その中で、次第に自分の好きな聖句や、
イエス様のたとえ話が出てくると思います。
このメルマガでもしばらくは、こうして聖書の世界に
「ざっくりと」慣れ親しんでもらうためのメッセージを
継続してお届けしていきたいと思います。
さて、今週もあなたにとって素晴らしい一週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。


メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。
▽本メールマガジンの配信解除はこちらから
https://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge


(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

福音の大切さ

日々福音の大切さを実感するとともに、日本において福音の重要性がほとんど認識されていない状況に、風穴を開けていきたいと思う。父と子と聖霊の御名において。アーメン。
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳‬‬

思想的な迷子

ニューエイジっていうのは、すべからく思想的な迷子と言えると思う。国際化による価値観の相対化とグノーシス主義(もしくは新プラトン主義)は常にセットになって現れる。そして、社会の中で主流となっていた中心的価値観を失った時代に、そうした古い枠組みから飛び出して、自分自身と向き合うというストア派的な態度をとるはいいものの、結局のところ拠り所としているものが人間の揺れ動く感情である。また人間が考えたシンクレティズム的信仰をベースにしているので、自ら瓦解していってしまう。自らにより頼むのではなく、啓示された主を畏れる心がいかに重要か。

マンデラエフェクトと聖書

マンデラエフェクトって、ダイレクトにそのまま話してもほとんど意味がなくて、たとえ伝わったとしても、まるで夢の中の記憶のようにスッと忘れられてしまったり、話が噛み合わなかったりする。結局この不思議な経験やそれに伴う悟りの感覚をどのように伝えていくのかということを2年半以上試行錯誤した結果、最終的に聖書しかそれをちゃんと説明できる方法がないことがよくわかった。仏教や神道、神智学はそもそも修行をベースにした教理なので、直線時間の終焉や、マンデラエフェクトの話まで行き着かない。これは散々試みて、結局福音しかないということに落ち着いた。人間が途方もない努力の末探求して発見したものか、創造主の一方的な恵みと赦しの愛によって啓示されたものかで、やはり教理の性質は大きく違う。この辺りの素晴らしさに気づいてほしいなと思う。

ビジネスにおけるセンスと、ユダヤ的センス

ビジネスのセンスって、基本的にユダヤ的なセンスなんだけど、旧約聖書を理解しているかどうかは非常に重要な違いになる。というよりも旧約聖書的なヘブル主義を学ばずに、ビジネスに取り組むというのは、英語を学ばずに海外旅行をするようなもの。
国際政治なども、ヘブル主義を理解せずに、平和主義をうたっても世界の常識からするとトンチンカンな話になるだけで、基本的な教養として旧約聖書(つまりユダヤ人の歴史やその背景にある一神教的な信仰形態)を理解することは、ビジネスや国際的なセンスを磨く上で非常に大切。インターネットで国家の枠組みを超えて、情報が行き交う今の時代において、基本的な教養として持っているべき枠組みだと思う。特にニューエイジ 的な言説で混迷を極めている日本において、思想的な迷子にならなくて済むと思う。

聖書周辺の書籍がひとまず揃う

内村鑑三聖書注解全集17巻以外に、内村鑑三信仰全集25巻も届いた。聖書も、新共同訳以外に、新改訳、新改訳2017、聖書協会共同訳、リビングバイブル、創造主訳といろいろな訳本が整った。注解書や辞書も、福音派のもの、ペンテコステ派のもの、神学全般のものなどいろいろ揃った。
占星術や神智学の神学などで、ブッディ界の理論を限界まで調べ上げていたのだけれどこれにはそもそも抽象度が高すぎて人に伝えられない&伝えたとしても伝えた相手がアストラル界に入った時にサタンの影響から免れ得ないという教理上の限界があって、ここで常にストップしていた。しかし、聖書の中にブッディ界については、すべて書かれていることがよく分かり、またサタンの影響を一切受けないような教理が背景にあることで、新しい完成されたリソースとつながることができて本当に良かった。これでまた研究、そして、献身が、さらにより深いレベルでできるようになっていく。主の栄光を讃えていきたい。

日本における天職という概念の誤謬

天職はもともとは、キリスト教神学におけるvocationという言葉からきている。もともとはラテン語のvocare(呼び出す)の過去分詞からで、「神によって召し出された」という意味だった。Vocationは、本来は聖職者だけに使われる概念だったが、宗教改革の中で、ルターやカルヴァンは、万人司祭の考え方に基づき、聖職者に限らず、すべての人の仕事が、神から召命された仕事であるという概念を打ち出した。
主に仕えるように、自らの仕事に仕えなさいという意味が、vocationということになる。
この概念がアメリカにわたり、ニューエイジや心理学などと融合したものを、日本はキリスト教の要素だけを脱色することで、キリスト教神学における主の召命を前提としない日本独特の天職という概念ができあがっていった。さらに、ここに戦後の日本のマモン崇拝(経済中心主義)が入り、自己実現=天職=お金持ちという謎の三位一体が出来上がった。これによって「自己実現するための天職がある、そして天職に付ければお金持ちになれる、お金持ちになるためには自己実現するしかない」という訳の分からない構造になって広がることになる。
もともと天職とは主の栄光を讃えるというキリスト教神学をベースにして提示された概念で、現代心理学(主にアブラハムマズローの人間性心理学)を中心とした自己実現という神話とは相いれないもの。
このあたりの混乱を知らず知らずのうちに受け入れて、訳の分からないチャンポン的職業観として生まれたのが、日本独特の天職という概念だといえる。このあたりは、日本のニューエイジ文化の中でさらに混乱をもたらす要素になっていると思う。
あくまで天職という概念は、へブル的な意味において、主に仕える、主の召命があること前提で成り立っている。決して天職で自己実現をしていくのではなく、天職は主の栄光を讃えるために、僕(しもべ)として仕えるものであるということはしっかりと理解する必要があると思う。
「ワクワクしていたら、天職に出会える」とか訳の分からない言説に惑わされない方がいい。それよりもまずは主をあがめ、主を畏れること。そして、主に仕えるように、人に仕えること。無償の愛の精神で生きること。これに尽きると思う。
聖書的にはこの天職を、嗣業(しぎょう)と呼んでいる。日本の聖書文化にしか用いられない独特の表現。相続地という意味だが、土地というのはつまり当時の職業(農業)とダイレクトに結びついていた。その意味で、神から受け継いだ賜物という意味合いが含まれる。

クリスチャニティと時代を動かす熱

やはり内村鑑三や新島襄といった日本における初代キリスト教の礎を築いた人々がいた時代は、時代を動かす熱があったんだと思う。ソニーの創業者の井深大や、パイオニア創業者の 松本望、森永製菓創業者の森永太一郎、ライオン創業者の小林富次郎など、日本の根幹産業を作った経営者たちもこの時代に主の召命を受けて、イエスキリストを救い主として受け入れている。エネルギーの中心には必ず主がいる。これからの混迷する時代において、こういう核を作っていくことが大事なんだと思う。
https://note.mu/joel316/n/n96f16c0661b6

モーセ五書および歴史書の個人の人生への適応

旧約聖書におけるモーセ五書および歴史書は、ヘブル的な視点で、どのように主が人を用いるか、どのような御心で人を導くかという視点で見ると、現代においても、非常に適応しやすい。ビジネスや経営という視点においても、とても重要な指針になる。ニューエイジ、ニューソート的なビジネス書だとこうしたことは学べない。そもそもニューソート、ニューエイジ的なゴールはあくまで自己実現におかれている。ヘブル的な視点は、あくまで主の栄光を讃えるというゴールがある。規模感が違うし、使命感が違う。これは、結構な盲点だと思う。

SNSによる社会の分断化と、エクレシアの形成

現代におけるエコーチェンバーに見られるような社会における分断化の課題は、SNSの台頭によってもたらされている。
Facebook自身も、こうしたエコーチェンバーの課題をやはり強く意識していて、15年間変わらずあった「世界をよりオープンにし、つなげる」だったミッションを、2017年には「世界のつながりをより密に」「コミュニティづくりを応援し、人と人がより身近になる世界を実現する」2019年には、「よりプライバシーを重視したプラットフォーム」と変更され続けている。2019年のミッションは明らかに特にアメリカで中心に起こったユーザーデータの扱いへの批判を受けてのことだと思うが、ある意味、SNSの設計思想自体が迷走しているのだと思う。
ザッカーバーグによると「リビングルームで親密な話をしたがっていることが分かった。それがこれからのネットだ」というのが2019年時点での認識。しかし、これはむしろエコーチェンバー化をより加速させてしまう認識なのではないかとも思う。
結局この課題を超えるには、SNSの抽象度を超える枠組みを取り入れていくしかない。それは、「汝の敵を愛せよ」「無償の愛」「献身」の思想に基づく、エクレシア形成にこそあると思っている。

真の意味で経済に強くなるためにも、聖書的な価値観を学ぶ必要がある

特に戦後の日本の場合、国家神道における天皇陛下中心の価値観が失われた後、中心とすべき価値観が「経済的発展」になった。これは戦争ですべてを失った日本人にとっては確かにものすごい新しい神としてのリアリティがあった。そして、日本のカミの中心が経済的なものに据え変わった。
その信仰の強さゆえに、命をも惜しんで経済大国に生まれ変わった。
私たちは、生まれてからずっとこの文脈の中で生きているので、この文脈を対象化することは非常に難しい。
心の世界、霊的な文脈に進んでもなお、中核が経済にある。ゆえに日本のニューエイジ的問題はここにも大いにあると思う。決して神が中心ではなく、戦後の経済中心主義が、カミの中心に据えられている部分が大きい。
しかし、これは聖書的に言えば、完全な偶像崇拝であって、決して自らの中核に置くべき価値ではないということ。
また、実際に長年事業が安定してうまく行っている人は、多くの場合、中核を経済に置いていなくて、大体の場合、ヘブル的な文脈を持った神への信仰が中心にある。資本主義がキリスト教プロテスタンティズムから生まれたり、ユダヤ人が事業がうまいといわれる理由は、このヘブル的な価値観にこそある。
経営や仕事についてしっかりとした思想的なベースを持つうえでも、ヘブル的な価値観を学ぶために、旧新両約聖書を読むことはとても大事なことだ。ニューソート的な自己啓発のビジネス本ばかりを読んでいても、いっこうに地に足がついた意識にはならないだろう。なぜなら中核にあるものが、マモン(お金・経済)信仰だからである。
「主を畏れて身を低くすれば/富も名誉も命も従って来る。」
‭‭箴言 序‬ ‭22:4‬ ‭新共同訳
「銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ/精選された金よりも、知識を受け入れよ。 知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。 わたしは知恵。熟慮と共に住まい/知識と慎重さを備えている。 主を畏れることは、悪を憎むこと。傲慢、驕り、悪の道/暴言をはく口を、わたしは憎む。 わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ。 わたしによって王は君臨し/支配者は正しい掟を定める。 君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆/わたしによって治める。 わたしを愛する人をわたしも愛し/わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。 わたしのもとには富と名誉があり/すぐれた財産と慈善もある。 わたしの与える実りは/どのような金、純金にもまさり/わたしのもたらす収穫は/精選された銀にまさる。 慈善の道をわたしは歩き/正義の道をわたしは進む。 わたしを愛する人は嗣業を得る。わたしは彼らの倉を満たす。」
‭‭箴言 序‬ ‭8:10-21‬ ‭新共同訳

聖書を読む時間は祈りの時間

聖書を読む時間は、祈りの時間と同じ。毎日少しずつ聖書を読んで、祈りをささげることは、瞑想の時間を持つことと同じである。これを、日々のディボーションという。
瞑想と祈りの違いは、自力によるものか、他力によるものかである。瞑想は自分が無になること、そして自分の思考や潜在意識のパターンを見つめること、それから解き放たれることだが、祈りは、必ず、父と子と聖霊の恵みがともにある。
瞑想の背景は、自力救済、技による救いの教理ゆえにどんな瞑想の方法もしっかりとしたものは必ず師について行う。例えば、禅の「無関門」の世界観も、厳しい師弟関係が前提にある。ヨガも必ずグルにつく。教理の背景が、技による救いである以上、必ず人が人を指導することになる。つまり、師につかずに、本来の正しい瞑想をすることは非常に難しい。
しかし、聖書のディボーションは、どんな人でも取り組める。また、直接主に仕え、人と人との間に差を作らず、御言葉を通じた祈りはただそれだけで、人を謙遜にさせていく。主の前で人は常に皆平等だからである。

主の御言葉

主の御言葉は、じわじわと、しかし確実に作用する。そして揺らぐことはない。6000年の歴史の中で揺らぐことはなく、ずっと語られてきている御言葉。

トマスアクィナス

おそらくなんだけど、「神学大全」のトマスアクィナスも晩年にマンデラエフェクトを体験したんじゃないかと思う。あくまでこれは予測ではあるが、アリストテレスのスコラ哲学に基づいた神学の再構成をしていたわけだから、基本的にロジカルな神学構造をベースしていている。しかし、そうした論理的な世界観を超える事象(おそらく非線形時間との出会い)によって、すべての前提が崩れてしまったんじゃないかなと思う。
トマスは1265年ごろから「神学大全」の著述にとりかかっているが、第三部の完成を目指して著述を続けていた1273年12月6日、ミサを捧げていたトマスに突然の心境の変化が起こった。神の圧倒的な直接的体験をしたと伝えられている。『神学大全』も秘跡の部の途中まで完成していたが、彼は以後一切の著述をやめてしまう。
著作を続行するように僚友のレギナルドゥスがしきりにすすめたが、トマスはただ「私にはできない。私が見、私に啓示された事柄にくらべると私が書いたことはすべてわらくずのように見えるのだ」と答えたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%85%A8?fbclid=IwAR1gp7dFX9mS2aQxCyUZua8nUzeOs-lNgPWT3oyDc8A4rXLu2R7UT5K4a_Q

アウグスティヌスとマンデラエフェクト

色々調べていると、ほぼ確実にアウグスティヌスはマンデラエフェクトを体験している。告白や神の国の中での時間論やそれにともなう記憶論は、実際に創造主による時間そのものの創造、つまりマンデラエフェクトを目の前にしないと、確信を持って書けない文章だし、また同時にマンデラエフェクトそのものをどうやったって人には伝えられないという不思議な現象、体験の中にあるからこその文体になっている。非常に興味深い。つまり終末はすでにアウグスティヌスにもあったということなんだろう。

内村鑑三聖書注解全集

内村鑑三の聖書注解全集が届いた。自分が生まれる20年前の本なんだけど、ベースとしているものが聖書なので、今でも変わらず読めるし、普通に適応できる。すごい。

知のロゴスと信のロゴス

知のロゴスと信のロゴスがあるんだよな。信のロゴスの本質は謙遜にあって、信のロゴスのほうが知のロゴスより優れている。ロゴスが受肉し、人間になったのがイエスキリストであって、それは信仰によって初めて義とされる。知は常に疑いとともにあるのでいつまでも有効にならないばかりか、むしろ人を僭越にさせるので、結局伝わらない。

幾度となく繰り替えす死に気づくために永遠の生命に生きること

確かに確率的に、どこかで隕石は衝突するわけで、しかもそれは本人が気づくまで幾度となく繰り返されているのか。つまり私たちは何度もなんども絶滅しているということなのか。
ダークマターと恐竜絶滅 新理論で宇宙の謎に迫る リサ・ランドール https://www.amazon.co.jp/dp/4140816953/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_myReDbEX82TX7
しかもこの事実を、知によってではなく、信仰のみによって気付いてもらうためには、確かにグノーシス主義では不可能で、聖書の御言葉、ロゴスが愛(神智学においてはブッディ)として人(神智学ではマナス)において実体化した主イエスキリストを自らの救い主として受け入れる絶対他力信仰しか確かに方法がないということなんだわ。なるほどな。。。。。。。。

シンプルに言うと

もともと私たちはアダムによってもたらされた直線時間に支配された「死後の世界」に生きていて、それがイエスキリストの贖いを信じることによって死からともに蘇ることで、アダムが現在を犯す前の直線時間が終焉した「生前の世界」に戻れるということなんだな。まさにそれこそが「蘇り」なんだわ。ここ数年の身の回りに起きる不思議な現象がキリスト教神学としてだいぶ分かりやすくまとまった。
つまり、シンプルに言うと、確かにみんなもともとアダムが体験した死後の世界に生まれているということなんだな。

楽園追放までの世界

そうか。もともと楽園追放までは永遠の生命の中で生きていたのに原罪によって死ぬようになったということは、キリスト教の世界の理解においてはもともと生まれた時から死んでいるのか。つまりもともとのこの世があの世であって、イエスキリストを救い主として受け入れて、原罪は贖われた段階で、あの世がこの世になり、あの世に線形時間がないように、聖化から栄化へと進むことで、線形時間が終焉していくということなのか。

いつの時代もマンデラエフェクトは起きていた

アウグスティヌスも「告白」「神の国」の中で直線時間の終焉に関して語っている。おそらく実体験としてパウロのように、確実にマンデラエフェクトを経験したのだと思う。マンデラエフェクトはどうも今の時代だけではなく、イエスを救い主として受け入れある一定の振動数になった時に、普遍的に経験する終末的徴であるみたいだ。

イエス様は謙遜なるロゴス

確かにロゴスを知的なプロセス探求するのはエリート主義に陥り、必ずそのプロセスは人を僭越にさせる。主は、ロゴスを、普通の人であり、また人類で最も謙遜な人であったアブラハムに啓示した。また、12人の使徒たちも、決してパリサイ派のラビたちような学問的エリートではなく、漁師や徴税人などの普通の人たちだった。ロゴスは、知的なものではなく、イエスキリストという存在によって啓示されたからこそ、人を告白と赦しへと導き、ロゴスに触れれば触れるほど、低く、低く、謙遜にさせていくのだ。主の栄あれ。ハレルヤ!

時間の終焉と黙示録

この世界、あの世なんだよな。皆、すでに死んでいる。でも、そのまま継続しているので気づかないという不思議な世界。クリスチャンは、死後の復活という概念があるので、これが復活かなるほどと理解ができる。マンデラエフェクトが起きている、時間の終焉がやってきたということはそういうこと。不思議な世界の中にいる。
ダニエル書やヨハネの黙示録などの終末論において、イエスキリストの再臨と直線時間の終焉について示唆されていたり、アウグスティヌスの告白の第3巻でキリストと時間論が語られていたり、パウロが聖書の中で第三の点に挙げられる神秘体験について語る様子なども、おそらくマンデラエフェクトを経験したことが原因なんだよな。イエス様がゲッセマネの園でお祈りする時に、ペテロはじめ3人の弟子が、3度に渡って寝てしまうのも、ようはイエス様の祈りによって振動数があがって眠くなってしまうってことなんだよな。。
この世はすでに死後の世界。わかっている人は分かっている。
聖書記者ヨハネはヨハネの黙示録の中で世界の終焉について主が語ることを書き記したが、同時にヨハネの福音書では、キリストはロゴスであったと告げている。日本語だと言(ことば)と訳されているので分かりにくいが原典のギリシャ語ではロゴス。つまりロゴスが実体化(受肉)したのがイエスキリストであって、再臨とはまさに時の終焉を意味するのだと思う。正直、はじめにロゴスがあったといった方がよくわかる。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。このロゴスは、初めに神と共にあった。万物はロゴスによって成ったという風に。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭1:1-5‬ ‭新共同訳‬‬
本当は、初めに「真理」があった。といった方が、わかりやすいんだけどね。本義からずれるが、日本語のニュアンスとして意訳すると。神は真理とともにあり、真理が受肉したのがイエスキリストといえば、非常にわかりやすい。
おそらくそのように翻訳してしまうと、グノーシス主義に陥ってしまう可能性が非常に高いから、言と訳したのかなとも思う。英語でもこの部分はあくまでWordだからね。
確かにロゴスを知的なプロセス探求するのはエリート主義に陥り、必ずそのプロセスは人を僭越にさせる。主は、ロゴスを、普通の人であり、また人類で最も謙遜な人であったアブラハムに啓示した。また、12人の使徒たちも、決してパリサイ派のラビたちような学問的エリートではなく、漁師や徴税人などの普通の人たちだった。ロゴスは、知的なものではなく、イエスキリストという存在によって啓示されたからこそ、人を告白と赦しへと導き、ロゴスに触れれば触れるほど、低く、低く、謙遜にさせていくのだ。主の栄あれ。ハレルヤ!
「終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」
ダニエル書 12:13 新共同訳
「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。 わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」
ヨハネの黙示録 22:12-14 新共同訳
「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭13:24-27‬ ‭新共同訳‬‬

主の栄光が讃えられますように

主イエスキリストの御名において、日本にエクレシアを形成すること。ここに主に与えられた全生命を献身したいと思う。主の栄光が讃えられますように。アーメン。

現代のマモン崇拝(お金という偶像崇拝)

そもそも資本主義とプロテスタンティズムの関係性を理解していないと、ただの拝金主義(マモン崇拝・お金というものの偶像崇拝)になってしまう。そもそも戦後の日本は多かれ少なかれこうしたマモン崇拝にあったのだと思う。今のエコーチェンバー化する群発カルトの問題も、こうしたマモン崇拝が背景にあって、非常に危険な状態にあると思う。一人でも多く、こうした日本のニューエイジムーブメントが今陥ろうとしている危険な兆候に気が付いて、大きな問題が起こる前に危険を察して事前に防いでほしいと思う。
「思慮深い人は災難が来ると見れば身を隠す。浅はかな者は通り抜けようとして痛い目に遭う。 主を畏れて身を低くすれば/富も名誉も命も従って来る。 曲がった道には茨と罠。そこから遠ざかる人は自分の魂を守る。」
箴言 序 22:3-5 新共同訳

「リスクをとって、前に進む」は本当に正しいのか?

世にいう、リスクをとって前に進みなさいというのは、民数記において主が民にカナンの地へリスクをとって入国するように命ぜられたように(しかし実際は主の御心に従わなかったため40年荒野をさまよった)、あくまで【主の召命があるならば、万軍の主があなたについているから自信をもって】リスクをとって前に進みなさいということなんだよな。なんでもかんでも自分だけの決断でリスクをとって前に進めばいいというものではない。ましてそうした思いで他者をただただリスクに差し向けるのも違う。こうした言説は小泉政権下でものすごく流行ったなと思うし、僕自身もこの文脈のど真ん中にいたし、たくさんの失敗をした。リスクをとって前に進むのは、そもそもまず創造主への信仰心や忠誠心が前提にあっての話。大義がなければなぜ、迫りくるリスクと戦えるだろうか?この「リスクをとって前に進む」という感覚を、ちゃんと言語化するまで、つまり聖書の御言葉と出会うまでに12年かかった。主を畏れ、主に従うこと。これは、旧約聖書の中心的なテーマだともいえる。聖書はビジネスを扱う人にとっても、やっぱり読むべき書籍だなと思う。
「彼らはモーセに説明して言った。「わたしたちは、あなたが遣わされた地方に行って来ました。そこは乳と蜜の流れる所でした。これがそこの果物です。 しかし、その土地の住民は強く、町という町は城壁に囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。 ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます。」 カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」 しかし、彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言い、 イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。 そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない。
共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。 イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。 どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」 そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」 モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。 土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、 イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。 もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。 ただ、主に背いてはならない。あなたたちは、そこの住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」 しかし、共同体全体は、彼らを石で打ち殺せと言った。主の栄光はそのとき、臨在の幕屋でイスラエルの人々すべてに現れた。 主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。 わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう。」」
民数記 13:27-33 14:1-12 新共同訳

知識やノウハウではなく、信仰を盾にして。

SNSの台頭で気づけば今の時代は色々な「ノウハウ」が、商品になっているのだけれど、ノウハウでは救われないという結論に至ったのが新約聖書の世界。大事なのは、「恵みによる一方的な救済」と「信仰」。ここに行き着いた。ノウハウは人を高ぶらせるが、信仰は人を謙遜にさせる。知識やノウハウのある人よりも、謙遜な人を、創造主は好まれるからだ。アーメン。
「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。」
エフェソの信徒への手紙 6:16 新共同訳

福音の教えは、リスクをとって前に進むべきとは教えていない。

福音の教えは、決断でも、リスクをとることでもなく、行動でもなく、信仰。福音を知って、救われると全てを変えたくなるが、「リスクをとって前に進む」といった教えは聖書的ではない。行いによって救われるわけではなく、信仰のみにおいて救われる。福音という素晴らしい教えによって救われる時に、人の弱さゆえに、罪の意識から、衝動的に色々変えたくなる傾向に対して、パウロは戒め、諭している。大切なことは、私たちが決めるのではなく、主が決めること。そして、聖霊が導いてくださるということ。その主の御心のままに、なすべきことがなされるように祈るということが大切。
自分の信仰が主の御心に沿っているかを御言葉をもとに吟味しながら、ゆっくりと進んでいく。これが何よりも大事なこと。いきなり何かを思い切って変えるのではなく、何よりも自分と主イエスキリストとの関係性を、主の御心と恵みの愛に沿って、じっくりと育てていくことが大事。
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。」
コリントの信徒への手紙一 7:17-24 新共同訳
ニューエイジを含めて、カルト的な信仰は、決断や行動、実践を求める。福音による救済において大事なことは、信仰であって、決して行いによるものではない。自分の信仰が主の御心に沿っているかをじっくりと吟味しながら進んでいくことがとても大切なのだ。

日本の教会の共通の課題―高齢化

日本の教会に行ったときにものすごく感じた違和感、危機感は、教会の日曜礼拝に、おじいちゃんおばあちゃんしかいないこと。どの教会も高齢化が進んでいるらしい。これはいかにキリスト教理解が、初期の明治時代のクリスチャニティの受容あたりで止まっているかということでもあるし、70年代以降、いかにニューエイジ的文脈、つまりサタニックな影響のほうが強いかということでもある。たぶんこれまでの経験上、今の日本の40代の女性の1/4くらいの人が、ニューエイジ的・スピリチャルな文化の中にいると思うけれど、こうなったのも、オカルトがスピリチャルと呼ばれ始めたこの十数年の話。実際に教会に行って、強く感じたのは、これからは僕の世代が立たないといけないなと強く感じた。日本のクリスチャニティは非常に危機に瀕しているのではないかと思う。もちろんその中で日本特有の十字架を背負って霊的な戦いに臨まれていらっしゃるクリスチャンの皆さまに敬意を込めながら。。。
「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」
エフェソの信徒への手紙 6:10-20 新共同訳

日本におけるキリスト教受容について

日本におけるキリスト教の受容について考えるとき、昔(地域によってはいまも)海外旅行に行く時に変圧器や変換アダプターが必要だったように、聖書の世界を紹介する時(特に個人の生活に適応する時)は、いったん概念や言葉の変圧器が必要だなと思う。特に多神教国家の日本においては、一神教の世界というのは、非常に誤解を受けやすいし、あまりにも文脈が違うので、変換アダプターや、変圧器が必要。日本の牧師の役割は、こういう異文化受容のための変圧器としての役割、自覚が求められるのだと思う。
そういう意味で日本における新しい内村鑑三のような存在にならないといけないなと思う。主の栄光を讃えるために献身に励みたい。
いきなり聖書を読んでも、言うなれば、コンセントの形や電圧が違うので、そのままだと動かないんだと思う。占星術などの場合は、そもそも惑星という地球どこから見ても同じ共通の天体があるため、これが変換アダプターになるんだよね。
じゃぁ聖書における変換アダプターとは?それは「無償の愛」という概念でしかありえない。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭13:4-10‬ ‭新共同訳‬‬
「普遍的な無償の愛の価値観」これが、個人生活の適応において、重要な変換器になる。
そういう意味で聖書の読み方の個人的なアドバイス、生活の適応こそが、今僕がやるべきことなんだなと思う。結局自分とイエス様との個人的な関係を結んでいくことが確実な救いになるので。そういう意味で日本の場合は、海外では一般的にうまくいく教会主義は、むしろアダプターとして機能せず、むしろこうした無教会主義の牧師が、個人的な相談に乗って、イエス様と自分とを直接繋げてくれる媒介役に集中した方がいいのだと思う。
結局言語的障壁、文化的障壁というよりも、イエス様との「個人的な媒介役」が必要。救いにおいて、重要なのは福音の三要素を信じることであって、教会主義はむしろ日本では本来の目的と逆の効果を持ってしまっている部分があると思う。
占いやカウンセリングに行くよりも、まずは聖書を開いて直接主に尋ねたり、牧師に相談した方がいいという欧米圏での一般的な常識を、こうした個人的な媒介役として、もっと日本でもうまく受容できればいいなと思う。
占星術家だった時代に、海外に行くと、海外の占星術家に言われたのは、「お前の国では、占星術家というとさけずまれないのか?ということだった。その時にはあまり意味がわからなかったのだが、キリスト教圏では占いはサタンの影響下にありそれに頼ることは禁忌であることは常識となっていて、そういう考えと常に占星術家は戦っていた。日本にはこういう緊張は全くない。今となってはよくわかるが、確かに占星術よりも聖書の世界の方がずっと霊的に完成されているため、たしかに海外の感覚はたしかに正しい。そして海外の占星術の世界もあくまで意識的であろうが無意識的であろうがキリスト教的なベースの上に成り立っているからこそ、サタンの影響が入らないようにという緊張の中で学問化、客観化されてきていると言える。
旧約聖書においても、占いは、厳しく禁止されている。
「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。」
申命記 18:10-12 新共同訳
また、新約聖書においても、占いは、禁忌とされている。つまり、キリスト教世界において占いは禁忌ということは、海外における常識であって、もちろん占星術師もそれを意識して、いかに占いではなく、学問、心理学なのかという形でアカデミック化していこうとする歴史的背景がある。
「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。」
使徒言行録 16:16-19 新共同訳
また海外の占星術家と触れてよく言われたのが、アメリカではそもそも占星術家はもちろんのこと、カウンセリングよりも、だいたい何かに悩んだ時も、最初は皆教会に行って牧師に相談して解決しちゃう。だからすごく大変だ、と言っていた。占星術師の視点から見るとたしかにそうなんだが、逆にいうと牧師の役割ってすごく大きいという意味でもある。海外だと逆にそうやって機能していない教会の受け皿としてカウンセリングや、時によって占星術師がいると言えるのだと思う。
海外から直接ニューエイジ や占星術を点で受容しているがためにこの辺の面的な常識が日本には受容されていない。この辺りは今後の活動において非常に重要な要素になっていると思う。
日本はようは、悩んだ時に、「お寺や神社に行ってお坊さん、神主に相談しよう」とはならないからね。なので神様や仏様にお参りに行くし、そういう存在の具体的な声を知りたいという感覚で、占い師や霊能者、最近だとカウンセラーに相談するのだと思う。しかしそもそも占い師や霊能者、カウンセラーが確かな救済神学に基づいているかというと、そもそもその背景にある神学は、あくまでサタニックな影響を防げない教理的な欠陥構造を持っているニューエイジ 的なもの、あるいは神の存在を前提にしない自力救済の心理学になってしまうんだよね。
しかも今は特にSNSの時代で誰しもが自称カウンセラー、占い師として、こうしたサタニックな影響を防げないニューエイジ 的な神学に無自覚で、プチオウム(オウムもニューエイジ の影響下にあった)のような、エコーチェンバー化した集団による、カルト的被害が拡大していってしまっているのが日本の現状だと言える。

【ベツレヘムの星便り】愛の書としての聖書



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/6/23                   357号


こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
いかがお過ごしでしょうか。
この6月は、クリスチャンとしての信仰告白をして、
長年携わってきた占星術師としての歩みを辞めて、
福音を伝えていくという道へと進み始めました。
さて、僕自身がこれからの活動の中で、お伝えしていきたいメインテーマは、
イエスキリストが示された、無償の愛・アガペーについて。
このアガペーという愛を知ることについて、聖書はこのように述べています。


キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、
そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。
(エフェソの信徒への手紙 3:18-19 新共同訳)


私たちは、知らないことは、行動に移すことはできません。
逆に、知っていることで、初めてその考えを行動に移すことができます。
聖書はそのような、普通に生きていたら知りえないような、
「広さ、長さ、高さ、深さを持った愛」の在り方を学ぶために、
幾千年もの間読み継がれてきた「愛の本」なのです。
さて、聖書で伝えられるイエスの愛は、
一言でいうと「汝の敵を愛せよ」という愛です。
イエスはルカの福音書においてこのように語られています。


しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あな
たがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。
上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれに
でも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろう
か。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる
人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをし
ている。
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人
さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしない
で貸しなさい。
そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、
恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさ
い。」
ルカによる福音書 6:27-36 新共同訳


この言葉の中にある「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を
感じとってみましょう。
そして、このような立体感のある愛をどのように、
日々の生活の中で適応していけるだろうかと
思いめぐらしてみましょう。
特に今の時代は、SNSの台頭によって、
価値観の合う人とはどんどん距離が近くなる一方、
価値観が異なる人とは、さらに距離ができてしまう時代です。
SNSが登場する以前に比べて、人間関係が深まっているように見えて、
その実、むしろ逆に異質な価値観を持つ相手との関係性は、
希薄になっている時代ともいえます。
あなたの愛の価値観の中に
「汝の敵を愛せよ」という要素を入れてみると
どのように世界の見方は変わるでしょうか?
こうした営みを、長い歴史の中で人類を見守ってきた
聖書の御言葉に触れることは、私たちに忘れていた
人として大切な視点を与えてくれます。
さて、次回以降、ややもすると分厚くてとっかかりにくい
聖書を、どのように読んでいけばいいかについて
語っていきたいと思います。
今週もあなたにとって、素敵な一週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。
アーメン。


メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。
▽本メールマガジンの配信解除はこちらから
https://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge


(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

キリスト者は、永遠に生きている。

キリスト者は、永遠に生きている。つまり、パウロ、アウグスティヌス、カールバルド、ウェスレー、内村鑑三など、これまでのキリスト教神学の礎を築いてきた神学者たちも、リアルに生きている。そういう実感を、神学を学んでいるとかなりリアルに感じる。古い時代の本でも、全く古さを感じないばかりか、むしろ彼らが今ここで語っているような感じがする。
これはそもそもどの時代の人も全く同じ創造主の言葉である「聖書」というものをベースにした思索を重ねているからなのか。寄って立つ言葉がすべて同じ聖書の御言葉なので、時代を超える。創造主の言葉というのはすごいな。。

キリスト教神学の奥深さ

聖書註解書や聖書辞典などを色々調べていると、キリスト教神学の奥深さをしみじみと感じる。

聖書の注解書

聖書の注解書を調べていたら、チャールズ・スポルジョン「良い注解書はコートを売ってでも買いなさい」という言葉に出会った。美しい言葉だ。

日本独自の教会形成論の必要性

日本の歴史と、欧米の歴史が違い過ぎて、キリスト教受容といっても、内村鑑三の無教会主義という考え方のように、日本独自のキリスト教神学を形作る必要があるんだなと感じる。特に教会形成論は非常に重要だ。ただ海外からの教会形成論を方法論として援用したところで、日本だとほとんど何の意味もない。歴史的な背景が違いすぎるから、クリスチャニティがしっかりと受容されるためには日本独自の教会形成論の確立が欠かせないんだと思う。その意味でもキリスト教界が、日本の幼児教育や学校教育に注目したのは大きいのだろうね。長い時間をかけて、文化を受容するための「人」から作っていったといえる。そうしたことが日本のキリスト教受容の今後の重要なベース、内的召命の源泉になっていくんだと思う。

創造主から届いたラブレターとプレゼント

日本人の感覚で言うと、仏教の影響で、宗教=修行なんだけど、聖書は修行しなさいとは一切書いてない。というか、パリサイ人の厳格で、修行的な姿勢をイエスが痛烈に批判するように、むしろそうしたものは人間の傲慢さだと退けられている。
また、日本においては、キリストの十字架とは、仏教の修行のようなものととらえる大きな誤解もよくある。十字架での死が、仏教の滝行のエクストリームバージョンか何かだととらえられている場合も多い。ちゃうちゃう。イエスの十字架が示すのは、私の代わりに死んでくださって、人生の罪悪感から解放してくださるという恵みの愛であって、修行の手引きや象徴じゃない。
聖書が教えていることは、神様があなたをどんな時でも愛しておられるということ。簡単にいうと聖書とは、修行の本ではなく、ラブレターだということ。キリストの十字架での贖いも、修行ではなく、御返しのいらない愛のプレゼント。
ラブレターとプレゼントがポストに届いているのに、学校の宿題が届いたと勘違いして、400年も開いていない状態にあるという不思議な状態にある。
好きな相手のために、めちゃくちゃ修行しているのに、実はその相手からは、とうの昔にラブレターとプレゼントが届いているという不思議な状態にある。不器用にもほどがある。
江戸幕府によるキリスト教禁制も、いうなれば、受験期なのに、うちの子が、好きな人からラブレターとプレゼントが届いているなんか知ってしまったら、恋にうつつして、勉強しなくなる。親(この世の神・幕府)のいうことを聞かなくなるから、とんでもない、知らない間に取り上げてしまいましょうということが、400年前にあったということなんだよね。
そして、檀家制度を通じて、その人個人の信仰心とは一切関係なく、強制的にあなたはこの人に嫁ぐことになるのよ、将来に関して何も心配いらないと、地域のお寺といういいなずけをすべての人につけたということ。
旧約聖書の雅歌に歌われている通り、創造主と人との関係は、本来、エデンの園においては、相思相愛のラブロマンスのようなものだったからね。
「若者の歌
恋人よ、あなたをたとえよう/ファラオの車をひく馬に。 房飾りのゆれる頬も/玉飾りをかけた首も愛らしい。 あなたに作ってあげよう/銀を散らした金の飾りを。
おとめの歌
王様を宴の座にいざなうほど/わたしのナルドは香りました。 恋しい方はミルラの匂い袋/わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。 恋しい方は香り高いコフェルの花房/エン・ゲディのぶどう畑に咲いています。
若者の歌
恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう。
おとめの歌
恋しい人、美しいのはあなた/わたしの喜び。わたしたちの寝床は緑の茂み。 レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。」
雅歌 1:9-17 新共同訳

キリスト教と自由主義神学

神学者のジョン・グレッサム・メイチェンの、キリスト教と自由主義神学の違いの定義がわかりやすい。以下引用。
「それゆえに自由主義はキリスト教とは根本的に異なるものであるということは不可思議ではない、何となればその土台が異なるのであるから。キリスト教は聖書の上に建てられる。それはその思惟と生活とを共に聖書の上にすえる。しかるに他方自由主義(リベラリズム)は罪深き人間の移りゆく情緒の上に建てられるのである。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キリスト教と自由主義神学
近代心理学もそういう意味で当時、自由主義神学が全盛だった時代の産物なんだよな。
また、今は、SNSの台頭によって、超個人主義化、心理学化していく中で、このよって立つ土台が揺らいでいるといえる。「罪深き人間の移りゆく情緒の上に建てられる」というのは心理学全般においていえることだと思う。時代精神が個人主義化し、同時に心理学化すればするほど、人は結果的に神学的な問題であるところの、原罪というテーマに向き合わなきゃいけなくなるんだよな。

日本における福音伝道のためのコアジェネレーションとして

日本の場合、1612年に江戸幕府によって敷かれた檀家制度というのは、キリスト教的思想が広がらないための鉄壁の守りになっている。基本、「うちの宗教は真言宗なので…」「うちは浄土真宗でして…」という形で、特段その宗派に対する専門的な知識や、自発的な信仰心がなくとも、ひとまず外側の信仰を受け入れる必要が一切なくなる。また檀家制度は冠婚葬祭に深くつながっていて、日本の家制度ゆえに、これはファイアーウォールとして日本に異教的なものを一切入れないために非常に有効に機能してきた。その意味で、日本において地域教会主義をとりながら伝道活動をすることは、普通に考えて不可能に近い。ゆえにその時代から変わらず日本におけるクリスチャン人口は、ずっと1%で推移していっている。このあたりをすでに明治期に見抜いていた内村鑑三は、無教会主義という日本独自の信仰形態を考え出す。これはある種の日本的なキリスト教受容のベースとなる考え方で、本来地域教会は、諸外国においては福音を伝えるために、クリスチャンが集い、有効に機能する場所であったはずが、檀家制度において鉄壁の守りが敷かれている日本においては、むしろこの地域教会を中心とした伝道活動が弊害となって広がらないという側面があるのだと思う。これはおそらく所与のものとしてキリスト教が与えられている諸外国からは理解できないし、見えない構造だろう。むろん、日本の地域教会が悪いということでは全くなく、むしろそのシステム的制限のゆえに、福音が広がらないなかで宣教活動をするという苦労を、先人たちは十字架のように背負ってきたのではないかと思う。ゆえに、今の日本の地域教会は疲弊してしまっていて、高齢化が進んでしまっているし、後継者も少なく存続自体が危機的な状況にあるところも多いと聞く。
日本独特の十字架を背負いながらも、その福音の命脈を保ち続けてきた先人たちの苦労は、インターネット時代、情報化時代で、人が集い、福音について学び、主に祈るための場が、「地域教会としての建物」である必要が無くなった今、報われるべきなんじゃないかと思う。新しい時代の新しい宣教活動のベクトルが出てきてもおかしくない状況だといえるだろう。僕のような人たちはそうした新しいクリスチャン世代、コアジェネレーションになっていくのだと思う。
今の時代はインターネットやSNSを中心として、地域教会に所属しない日本的な無教会主義のクリスチャンが生まれていく土壌がしっかりとある。僕が現時点であえてどこかの地域教会に所属していないのも、決して地域教会の軽視ではない。むしろ、その強い信仰心、主を愛する気持ちゆえに、日本におけるクリスチャニティが広がることを念頭に置き、この檀家制度という鉄壁のブロックを意識した時に、日本における宣教活動は、無教会主義でないとなかなか難しいのではないかと思うがゆえ。もちろん僕としては、日本全国の地域教会をはじめとした、すべてのクリスチャンとつながり、主の栄光を讃える気持ちの中にあるし、日本においてイエスキリストへの信仰が広く受け入れられるべく、自らを主のために献身できたらこの上ない喜びである。檀家制度が敷かれ、それが常識となっている日本において、キリストへの信仰というのは、最初の入り口は、地域教会を介在させた外的な召命ではなかなか難しく、無教会主義に基づく、内的な召命、つまりイエスキリストとの直接的な関係の中でこそ広がっていくのだと思う。内村鑑三が、考え抜いた結果作り出した無教会主義は、日本の宣教活動において、非常に重要な思想的なOSになるのだと思う。
「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」」
マタイによる福音書 28:18-20 新共同訳

【ベツレヘムの星便り】無償の愛とクリスチャニティ



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/6/16                   356号


こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
いかがお過ごしでしょうか。
前回から内容を大きくリニューアルした本メルマガ。
http://www.ondorinohane.com/blog/2019/06/400.php
今回からクリスチャニティに基づき、どのようなお話をしていこうかと
考えていたのですが、そもそもクリスチャニティとは何か?
そして、それがなぜこの今週の星便りを読んでくださっていたあなたと
どんな関係があるのか?という質問に答えないといけないと思っております。
前回もお伝えした通り、私が西洋占星術師から、
クリスチャンとして新しい道を歩み始めた理由は、
「無償の愛、犠牲の愛」について、これまで以上により分かりやすく、
より深くお伝えしていきたいという思いからでした。


「占い」でできたこと/できなかったこと 
「自分を愛すること」というメッセージを超えて


これまでの12年間、「愛する」というメッセージについて
私が一貫して伝えてきた内容はシンプルに言うと、
「自分らしい人生を歩むためには、自分を愛することが大事」
「その中で、自分が癒され、その癒しは周囲にも及び、
人を癒していくことになりますよ」というメッセージでした。
これを週間占いや、新月満月占い、個人セッションや講座などでも、
繰り返し、繰り返し、伝えてきたわけです。
そして、2007年のスタートから12年。
気づけばこうしたメッセージは、すでに普遍的なメッセージとして、
多くの人に受け入れられ、語られる時代に変わったように思います。
この12年間で伝えられたことは、特に心理学的な価値観に基づいた
「自分を愛することが大切」というメッセージでしたが、
一方で振り返って、伝えられなかったことは、そもそも「愛」とは何か、
「無償に愛するとはいったいどういうことなのか」という
より一歩踏み込んだ内容でした。


日本における「愛」の歴史


そもそも日本に「愛」という言葉が一般化したのは、明治時代以降のことです。
西洋文化を受容する以前の日本においては
むしろ「愛」とは、仏教的な文脈において、
執着の気持ちを意味し、我欲と同じく、
人生の中で離れるべきネガティブなイメージのほうが強かったのです。
愛というものにポジティブなイメージが持たれるようになったのは、
英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が、
明治維新以降導入され、
1) キリスト教の愛の概念(アガペー)
2) ギリシア的な愛の概念(エロス・ストルゲー・フィーリア等)
3) ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念(ロマンティックラブ)
といった主に三つの異なる概念が同時に流れ込み、
現在の多様な用法となっていったのです。
この中で、私が伝えていきたい
無償の愛、犠牲の愛と呼ばれるものは、
1つめのキリスト教の愛の概念であるところの、アガペーです。
そして、この無償の愛、犠牲の愛という概念を語るうえで、
これまで何とかして星の言葉で語ることができないかと
試行錯誤してきたのですが…
結論としてはどうやっても、何をやっても無理でした。
というのも、どうしてもこの無償の愛、犠牲の愛ということを語るためには、
やはり「イエスキリスト」という存在抜きに、
語ることは不可能であるということを、最終的に悟らざるを得なかったのです。


無償の愛(アガペー)の大切さを伝えるために


つまり、私がずっと12年間伝えたかった無償の愛、犠牲の愛とは、
アガペーであり、これはイエスキリストが示したような、
宗教的な愛になります。
これはお釈迦様じゃダメなのか?天照大御神じゃなダメなのか?
と多神教国家の日本の感覚からすると、当然疑問として湧くことです。
しかし、僕もそう思って12年間ずっとイエスキリストの名前を用いずに、
書き続けてきたのですが…、結論としては、やはり不可能だったのです。
これは、仏教における悟りや慈悲という概念が、
開祖である釈迦という存在を抜きにして語れないように、
万世一系の天皇陛下の歴史が、天照大御神の存在を抜きにして
語れないように、
キリスト教における「無償の愛、犠牲の愛」の概念は、
下記の福音の三要素が前提にない限り、
絶対に説明が不可能なのだという結論にいたったのです。
福音の三要素とは、
1)イエスキリストが私たちの罪のために十字架の上で死なれたこと
2)墓に葬られたこと
3)3日後に復活し、今も生きておられること
というものです。
また、この福音の3要素を、ミッション系の幼児教育や、学校教育などで
何かしらの形で触れる機会があった人には、
たとえ細かい部分を覚えていなくても、
何の前提もいらずに「無償の愛、犠牲の愛=イエスキリストの愛」ということ
を共有できていたことにも気づいたのです。


キリスト教における「創造主」という存在


では、キリスト教における「無償の愛、犠牲の愛」とは一体何なのか?
それは、一言でいうと、この世界を作った「創造主」の存在が
大きく関係しています。多神教国家の日本で「神」というと、
語弊があることが多いので、
ここではこの世界を創造した唯一の「創造主」と
いったん区別して呼びましょう。
多神教国家である日本人の感覚だと、
「イエスキリスト《も》人を救ってくださる」というニュアンスで
イエスキリストを八百万の神の一柱の神として
受け入れることは何も難しいことではありません。
しかし聖書が伝えるメッセージを正しく理解しようとした時、
これは全く誤った理解となり、「イエスキリスト《しか》人を救えない」
というメッセージが正確な理解になります。
《も》から《しか》になった途端に、
日本人にとってはいよいよ難しい概念になります。
そして、この創造主と、その独り子イエスキリストを前提としないと語れない
のが、キリスト教における「無償の愛」「犠牲の愛」なのです。


父と子と聖霊の三位一体について


さて、なぜ聖書では、「イエスキリスト《しか》人を救えない」と考えるので
しょうか?それは、これから語る、キリスト教の神学を知ると、非常にすっき
りと分かるようになります。
聖書の世界では、創造主と、御子イエスキリストと、聖霊の3つの存在を、一
つの神としてとらえます。つまり、この世界を作った創造主と、その御子イエ
スキリストは同じ1つの神としてとらえるのです。
それゆえに、創造主が一人であるように、また創造主と同じ神である「イエス
キリスト《しか》人を救えない」と考える世界観が、クリスチャンの世界なの
です。
これは、キリスト教神学では、
父と子と聖霊の三位一体論として定義されています。
(なお、聖霊については今回語ると、さらに話が複雑になってしまうので、ま
たの機会に説明します。)
ちなみにこれは、カソリックでも、プロテスタントでも、正教会でも、
全ての宗派で採用されている考え方で、この三位一体説をとらない宗派は、
もしキリスト教を名乗っていても、
一般的に異端的信仰として区別されています。


キリスト教における無償の愛、犠牲の愛とは何か?


さて、ここまでの【創造主】【御子イエスキリスト】【三位一体】を理解した
段階で、ようやく、キリスト教における無償の愛が、説明できるようになりま
す。
そもそも、「無償の愛」というのは、何でしょう?
これをシンプルに表現すれば、
「ありのままのあなたでいい」
「ありのままの私でいい」という愛だといえるでしょう。
しかしよく考えてみてください。
「ありのままの自分であっていい」といわれた時に、
「そうか、それじゃ、今日から、ありのままの自分でOKなんだな」と
もし人が簡単に思えたら、心理学や占いなんていらないし、
セラピーも必要ありませんよね。
もちろん、僕が12年もメルマガを一貫して
自分を愛しましょうというメッセージを
書き続ける必要はなかったと思います。
つまり、「ありのままの自分でいい」と思えないからこそ、
人は「ありのままのあなたでいいんだよ」というメッセージを
常に必要としてきたわけで、どこまでいってもこうしたやり方だと、
この種の罪悪感は、根本解決に向かわないのです。
この「ありのままの自分でいいと思えない罪悪感」のルーツを、
聖書では「アダムとイブの原罪」に見出しています。
この原罪は、悪魔サタンが蛇に姿を変えて、
アダムとイブをそそのかして、善悪を知る知恵の実(禁断の果実)を
食べさせたことに由来しています。
【アダとイブ】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%90
キリスト教における無償の愛とは、
創造主による「赦しの愛」です。
もし、あなたの心の中から、
「ありのままの自分でいい」と無条件で、絶対的な安心感をもって、
本当に心から思えるようになると、
どのように世界の認識は変わるでしょうか?
このことが、聖書の中のとても大事なテーマであり、
これがイエスキリストを救い主として受け入れることで得られる
「救い」の中身になるのです。


アダムとイブの「原罪」はどのように贖(あがな)われたのか


さて、それでは、
アダムとイブによって人類に伝播していった
「原罪」はどのように贖(あがな)われたのでしょうか。
これは、旧約聖書の時代の当時の風習までさかのぼらなければ、
うまく説明することができません。
このアダムとイブによってもたらされた人類の原罪は、
旧約聖書においては、年に一回の過越祭(すぎこしさい)とよばれるお祭りに
おいて「動物の生贄(主に子羊だった)」を屠り(殺して)、その血を創造主に
捧げることによって、一時的に覆い隠せるものとしていました。
つまり、罪を贖うためには、「生贄の血」が必要だったのです。
また、さらに、創造主は、動物の生贄とは比べ物にならないほどの、
とても厳しい犠牲を求められることもありました。
それは、ユダヤ人の祖、アブラハムが、堕落した人々の罪を贖うために
自らの子供イサクを生贄にささげよと告げられた時のことです。
自分の子供を捧げるというのはなんと、厳しく残酷なことでしょうか。
しかし、もちろんこれは後日談があります。
苦渋の決断ながらも、それを創造主への愛ゆえに素直に受け入た、
アブラハムとイサクの姿を見た主は、その信仰の深さを見て、
イサクが生贄として屠られるギリギリでそれを撤回しました。
あくまで創造主は、アブラハムの子孫を創造主の民として選ぶべく、
その信仰心を試したのです。
そしてこのアブラハムとイサクの生贄の話は、
新約聖書のキリストイエスの十字架による罪の贖いの
重要な伏線になっているのです。
実はこの段階で、創造主は、自らの独り子であるイエスキリストを
人間の姿で地上に遣わせ、人類の原罪を贖うための「生贄」として
屠ることを考えておられたわけなのです。
ちなみにイエスキリストが十字架の上で、創造主の子羊(神の子羊)
として屠られたのは、この年に一度の過越祭と全く同じ日なのです。
この日をキリスト教ではイースター(復活祭)と呼んでいます。
最近、日本でもイースターが祝われる機会が増えてきましたが、
まさにこれが先ほどの過越祭と同じお祭りなのです。
つまり、創造主は、罪なき我が子を、
人類への愛ゆえに生贄として捧げられたのです。
子供を持つ親の気持ちになっていただくと、この創造主の愛がいかに
深い愛なのかを感じ取っていただけますでしょうか。
そして、こうした創造主による一方的な恵みの愛によって、
1)イエスキリストが私たちの罪のために十字架の上で死なれたこと
2)墓に葬られたこと
3)3日後に復活し、今も生きておられること
を信じることで、私たちは、原罪から解放されることになると、
聖書は教えているのです。
そして、これによって救われた人は、
創造主と主イエスキリストを愛し、そして、
創造主や、イエスキリストが示してくださった無償の愛、犠牲の愛のように、
周りの人たちを愛しなさいと伝えるのです。


「イエスキリストが示して下った」という前提


確かに、ここまでしっかりと背景を説明しないと、
キリスト教の「無償の愛」「犠牲の愛」の意味は分かりにくいですよね。
でも、これは、海外の人たちに向けて
釈迦抜きに仏教における「悟り」や「慈悲」を説明することが難しいように、
あるいは、神道において、天照大御神抜きに、
天皇家の歴史を説明することが困難であることとと、
全く同じことだといえるでしょう。
僕自身これまでの活動の中で、無償の愛というテーマについて、
伝えたいメッセージを伝えるために、12年もかかってしまったのは、
つまりはこういうことだったのです。
それは、無償の愛の背景にある
「イエスキリストが示してくださったような」という前提を
自分自身が持っていたことに気づけなかったということなのです。
そして、今、12年目に自らクリスチャンだったということを
信仰告白という形で、しっかりと自己言及できたことによって、
ようやく今、このことを正確に伝えられる体制ができました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる
者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わさ
れたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ヨハネによる福音書 3:16-17 新共同訳


クリスチャンとしての前提をシェアできることで、開かれる世界


さて、今日は、キリスト教神学のコアにある三位一体、イエスキリストの十字
架の贖い、福音の三要素についてお話をしました。
こうやって神学的な背景を理解できるようになると、今までなんとなく海外の
宗教なんだなとか、自分とはなんだか縁が薄い文化だなと考えていたキリスト
教や聖書の世界も、なるほどちょっと自分自身とのパーソナルなつながりが見
えてきて、興味が湧いてくると感じていただけるかもしれません。
これはちょうど12年前に、ホロスコープ占星術が全くといっていいほど市民権
がなかった時代に取り組んでいた文化的発信と、とても似ているような気がし
ます。願わくは、12年後にキリスト教の世界観が今の占星術が市民権を得たよ
うに広がってくれたら、ひとりのクリスチャンとしてとても嬉しいです。
そして、そもそも世界中で30%の人が信じているとされるキリスト教ですか
ら、そもそも神学の構成としては、決して複雑なものではないのです。もしそ
れが複雑な神学であれば、人から人へと伝わっていかないですからね。
そして、福音の三要素を信じるだけで救われるというシンプルさ(これを信仰
義認といいます)も、聖書の世界が持つ大きな救いの特徴であり、魅力です。
このキリスト教の背景が理解できると、私が一番伝えたい「無償の愛」の概念
が伝わるというばかりでなく、同時に、西洋の美術や芸術、文化、哲学、政治
など、様々な側面への異文化理解が深くなるのではないかと思います。
こうしたキリスト教という切り口で、新しく開かれる世界を、楽しみながら、
学んでいけるお話を、このリニューアルしたメルマガでは毎週お届けしていき
たいと思います。
今日も、前回に引き続き、長いメッセージとなってしまいましたが…お付き合
いいただきありがとうございました。
今週も、あなたにとって素敵な一週間になることを、
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。


メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。
▽本メールマガジンの配信解除はこちらから
https://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge


(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

救いの唯一性

多神教の日本人にとっては、「イエスキリスト《も》人を救ってくださる」ということは何の疑問も持たずに受け入れることができる。しかしそれ故に「イエスキリスト《しか》人を救えない」という聖書が伝える真の救いに行き着かない。ちゃんと聖書を読まないと、この信仰義認という救済論の本質は理解できない。
日本の歴史は、多神教国家故に、技による救いから信仰のみによる救いというフレームに移行するまで400年以上かかっても現時点ではほとんど変わっていない。
ゆえに国民性はすべからく努力家で、勤勉だとも言える。しかしその一方で、どこまで物的に豊かになっても精神的な幸福感が低いままである理由も、救いが技によるものであって、信仰義認という背景がないために、人生が仏道修行のようなものになってしまっているということがある。
またそれと同時に、仏道修行のように生きても、その結果生涯で仏の悟りにいたるということもないのも日本人にとっての常識的な感覚。悟るなんて、まだまだです、という感覚が永遠に続くのが技による救いの文化的背景。つまり技による救いの本質はまさにこの救いの未達性にこそある。ゆえにもし悟ったということを公言でもすれば、またこれはこれで人を奢らせる理由となってしまうという問題点を常にはらむ。

主から見た400年。

イスラエルの民は、エジプトの奴隷となってから約400年後に、預言者モーセのリーダーシップのもと解放される(出エジプト記)。旧約聖書最後の預言者マラキから、バプテスマのヨハネが登場するまでの新旧両約聖書の中間時代は、ちょうど400年。また、キリスト教の根幹的教理であるところの、三位一体説も、初代教会から数えて、400年後にアウグスティヌスによって完成された。こうしたことに見られるように、400年という、人間においてはとても長く感じる年月も、主においてはよく用いられる一つの時間的単位だといえる。
日本においては、キリスト教伝来以来、江戸幕府が1612年にキリスト教禁令を出し、檀家制度をひいてから、ちょうど400年となる。今こうした意味でも、日本の新たな霊性受容と目覚めがおきてもおかしくない時期に入っていると考えられるだろう。
「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
‭‭コヘレトの言葉‬ ‭3:1‬ ‭新共同訳

聖書の御言葉によって砕かれる経験

実社会で砕かれるより前に、聖書の御言葉によって砕かれた方がずっとダメージは少ない。そういう意味で聖書の御言葉は、本当によく砕いてくれる。ありがたいなとしみじみ思う。主を畏れる気持ちはすごく大事。成功したいならば、自己啓発の本よりも、箴言や詩篇、伝道者の書を読んだ方がいいと思う。正しく主を畏れないと、たとえ成功したとしても、手に入れた富や名誉なんてすぐに指の間からこぼれ落ちていってしまう。
「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。 そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び/心の中の板に書き記すがよい。 そうすれば、神と人の目に/好意を得、成功するであろう。」
‭‭箴言 序‬ ‭3:1-4‬ ‭新共同訳‬‬