【ベツレヘムの星便り】無償の愛とクリスチャニティ



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/6/16                   356号


こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
いかがお過ごしでしょうか。
前回から内容を大きくリニューアルした本メルマガ。
http://www.ondorinohane.com/blog/2019/06/400.php
今回からクリスチャニティに基づき、どのようなお話をしていこうかと
考えていたのですが、そもそもクリスチャニティとは何か?
そして、それがなぜこの今週の星便りを読んでくださっていたあなたと
どんな関係があるのか?という質問に答えないといけないと思っております。
前回もお伝えした通り、私が西洋占星術師から、
クリスチャンとして新しい道を歩み始めた理由は、
「無償の愛、犠牲の愛」について、これまで以上により分かりやすく、
より深くお伝えしていきたいという思いからでした。


「占い」でできたこと/できなかったこと 
「自分を愛すること」というメッセージを超えて


これまでの12年間、「愛する」というメッセージについて
私が一貫して伝えてきた内容はシンプルに言うと、
「自分らしい人生を歩むためには、自分を愛することが大事」
「その中で、自分が癒され、その癒しは周囲にも及び、
人を癒していくことになりますよ」というメッセージでした。
これを週間占いや、新月満月占い、個人セッションや講座などでも、
繰り返し、繰り返し、伝えてきたわけです。
そして、2007年のスタートから12年。
気づけばこうしたメッセージは、すでに普遍的なメッセージとして、
多くの人に受け入れられ、語られる時代に変わったように思います。
この12年間で伝えられたことは、特に心理学的な価値観に基づいた
「自分を愛することが大切」というメッセージでしたが、
一方で振り返って、伝えられなかったことは、そもそも「愛」とは何か、
「無償に愛するとはいったいどういうことなのか」という
より一歩踏み込んだ内容でした。


日本における「愛」の歴史


そもそも日本に「愛」という言葉が一般化したのは、明治時代以降のことです。
西洋文化を受容する以前の日本においては
むしろ「愛」とは、仏教的な文脈において、
執着の気持ちを意味し、我欲と同じく、
人生の中で離れるべきネガティブなイメージのほうが強かったのです。
愛というものにポジティブなイメージが持たれるようになったのは、
英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が、
明治維新以降導入され、
1) キリスト教の愛の概念(アガペー)
2) ギリシア的な愛の概念(エロス・ストルゲー・フィーリア等)
3) ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念(ロマンティックラブ)
といった主に三つの異なる概念が同時に流れ込み、
現在の多様な用法となっていったのです。
この中で、私が伝えていきたい
無償の愛、犠牲の愛と呼ばれるものは、
1つめのキリスト教の愛の概念であるところの、アガペーです。
そして、この無償の愛、犠牲の愛という概念を語るうえで、
これまで何とかして星の言葉で語ることができないかと
試行錯誤してきたのですが…
結論としてはどうやっても、何をやっても無理でした。
というのも、どうしてもこの無償の愛、犠牲の愛ということを語るためには、
やはり「イエスキリスト」という存在抜きに、
語ることは不可能であるということを、最終的に悟らざるを得なかったのです。


無償の愛(アガペー)の大切さを伝えるために


つまり、私がずっと12年間伝えたかった無償の愛、犠牲の愛とは、
アガペーであり、これはイエスキリストが示したような、
宗教的な愛になります。
これはお釈迦様じゃダメなのか?天照大御神じゃなダメなのか?
と多神教国家の日本の感覚からすると、当然疑問として湧くことです。
しかし、僕もそう思って12年間ずっとイエスキリストの名前を用いずに、
書き続けてきたのですが…、結論としては、やはり不可能だったのです。
これは、仏教における悟りや慈悲という概念が、
開祖である釈迦という存在を抜きにして語れないように、
万世一系の天皇陛下の歴史が、天照大御神の存在を抜きにして
語れないように、
キリスト教における「無償の愛、犠牲の愛」の概念は、
下記の福音の三要素が前提にない限り、
絶対に説明が不可能なのだという結論にいたったのです。
福音の三要素とは、
1)イエスキリストが私たちの罪のために十字架の上で死なれたこと
2)墓に葬られたこと
3)3日後に復活し、今も生きておられること
というものです。
また、この福音の3要素を、ミッション系の幼児教育や、学校教育などで
何かしらの形で触れる機会があった人には、
たとえ細かい部分を覚えていなくても、
何の前提もいらずに「無償の愛、犠牲の愛=イエスキリストの愛」ということ
を共有できていたことにも気づいたのです。


キリスト教における「創造主」という存在


では、キリスト教における「無償の愛、犠牲の愛」とは一体何なのか?
それは、一言でいうと、この世界を作った「創造主」の存在が
大きく関係しています。多神教国家の日本で「神」というと、
語弊があることが多いので、
ここではこの世界を創造した唯一の「創造主」と
いったん区別して呼びましょう。
多神教国家である日本人の感覚だと、
「イエスキリスト《も》人を救ってくださる」というニュアンスで
イエスキリストを八百万の神の一柱の神として
受け入れることは何も難しいことではありません。
しかし聖書が伝えるメッセージを正しく理解しようとした時、
これは全く誤った理解となり、「イエスキリスト《しか》人を救えない」
というメッセージが正確な理解になります。
《も》から《しか》になった途端に、
日本人にとってはいよいよ難しい概念になります。
そして、この創造主と、その独り子イエスキリストを前提としないと語れない
のが、キリスト教における「無償の愛」「犠牲の愛」なのです。


父と子と聖霊の三位一体について


さて、なぜ聖書では、「イエスキリスト《しか》人を救えない」と考えるので
しょうか?それは、これから語る、キリスト教の神学を知ると、非常にすっき
りと分かるようになります。
聖書の世界では、創造主と、御子イエスキリストと、聖霊の3つの存在を、一
つの神としてとらえます。つまり、この世界を作った創造主と、その御子イエ
スキリストは同じ1つの神としてとらえるのです。
それゆえに、創造主が一人であるように、また創造主と同じ神である「イエス
キリスト《しか》人を救えない」と考える世界観が、クリスチャンの世界なの
です。
これは、キリスト教神学では、
父と子と聖霊の三位一体論として定義されています。
(なお、聖霊については今回語ると、さらに話が複雑になってしまうので、ま
たの機会に説明します。)
ちなみにこれは、カソリックでも、プロテスタントでも、正教会でも、
全ての宗派で採用されている考え方で、この三位一体説をとらない宗派は、
もしキリスト教を名乗っていても、
一般的に異端的信仰として区別されています。


キリスト教における無償の愛、犠牲の愛とは何か?


さて、ここまでの【創造主】【御子イエスキリスト】【三位一体】を理解した
段階で、ようやく、キリスト教における無償の愛が、説明できるようになりま
す。
そもそも、「無償の愛」というのは、何でしょう?
これをシンプルに表現すれば、
「ありのままのあなたでいい」
「ありのままの私でいい」という愛だといえるでしょう。
しかしよく考えてみてください。
「ありのままの自分であっていい」といわれた時に、
「そうか、それじゃ、今日から、ありのままの自分でOKなんだな」と
もし人が簡単に思えたら、心理学や占いなんていらないし、
セラピーも必要ありませんよね。
もちろん、僕が12年もメルマガを一貫して
自分を愛しましょうというメッセージを
書き続ける必要はなかったと思います。
つまり、「ありのままの自分でいい」と思えないからこそ、
人は「ありのままのあなたでいいんだよ」というメッセージを
常に必要としてきたわけで、どこまでいってもこうしたやり方だと、
この種の罪悪感は、根本解決に向かわないのです。
この「ありのままの自分でいいと思えない罪悪感」のルーツを、
聖書では「アダムとイブの原罪」に見出しています。
この原罪は、悪魔サタンが蛇に姿を変えて、
アダムとイブをそそのかして、善悪を知る知恵の実(禁断の果実)を
食べさせたことに由来しています。
【アダとイブ】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%90
キリスト教における無償の愛とは、
創造主による「赦しの愛」です。
もし、あなたの心の中から、
「ありのままの自分でいい」と無条件で、絶対的な安心感をもって、
本当に心から思えるようになると、
どのように世界の認識は変わるでしょうか?
このことが、聖書の中のとても大事なテーマであり、
これがイエスキリストを救い主として受け入れることで得られる
「救い」の中身になるのです。


アダムとイブの「原罪」はどのように贖(あがな)われたのか


さて、それでは、
アダムとイブによって人類に伝播していった
「原罪」はどのように贖(あがな)われたのでしょうか。
これは、旧約聖書の時代の当時の風習までさかのぼらなければ、
うまく説明することができません。
このアダムとイブによってもたらされた人類の原罪は、
旧約聖書においては、年に一回の過越祭(すぎこしさい)とよばれるお祭りに
おいて「動物の生贄(主に子羊だった)」を屠り(殺して)、その血を創造主に
捧げることによって、一時的に覆い隠せるものとしていました。
つまり、罪を贖うためには、「生贄の血」が必要だったのです。
また、さらに、創造主は、動物の生贄とは比べ物にならないほどの、
とても厳しい犠牲を求められることもありました。
それは、ユダヤ人の祖、アブラハムが、堕落した人々の罪を贖うために
自らの子供イサクを生贄にささげよと告げられた時のことです。
自分の子供を捧げるというのはなんと、厳しく残酷なことでしょうか。
しかし、もちろんこれは後日談があります。
苦渋の決断ながらも、それを創造主への愛ゆえに素直に受け入た、
アブラハムとイサクの姿を見た主は、その信仰の深さを見て、
イサクが生贄として屠られるギリギリでそれを撤回しました。
あくまで創造主は、アブラハムの子孫を創造主の民として選ぶべく、
その信仰心を試したのです。
そしてこのアブラハムとイサクの生贄の話は、
新約聖書のキリストイエスの十字架による罪の贖いの
重要な伏線になっているのです。
実はこの段階で、創造主は、自らの独り子であるイエスキリストを
人間の姿で地上に遣わせ、人類の原罪を贖うための「生贄」として
屠ることを考えておられたわけなのです。
ちなみにイエスキリストが十字架の上で、創造主の子羊(神の子羊)
として屠られたのは、この年に一度の過越祭と全く同じ日なのです。
この日をキリスト教ではイースター(復活祭)と呼んでいます。
最近、日本でもイースターが祝われる機会が増えてきましたが、
まさにこれが先ほどの過越祭と同じお祭りなのです。
つまり、創造主は、罪なき我が子を、
人類への愛ゆえに生贄として捧げられたのです。
子供を持つ親の気持ちになっていただくと、この創造主の愛がいかに
深い愛なのかを感じ取っていただけますでしょうか。
そして、こうした創造主による一方的な恵みの愛によって、
1)イエスキリストが私たちの罪のために十字架の上で死なれたこと
2)墓に葬られたこと
3)3日後に復活し、今も生きておられること
を信じることで、私たちは、原罪から解放されることになると、
聖書は教えているのです。
そして、これによって救われた人は、
創造主と主イエスキリストを愛し、そして、
創造主や、イエスキリストが示してくださった無償の愛、犠牲の愛のように、
周りの人たちを愛しなさいと伝えるのです。


「イエスキリストが示して下った」という前提


確かに、ここまでしっかりと背景を説明しないと、
キリスト教の「無償の愛」「犠牲の愛」の意味は分かりにくいですよね。
でも、これは、海外の人たちに向けて
釈迦抜きに仏教における「悟り」や「慈悲」を説明することが難しいように、
あるいは、神道において、天照大御神抜きに、
天皇家の歴史を説明することが困難であることとと、
全く同じことだといえるでしょう。
僕自身これまでの活動の中で、無償の愛というテーマについて、
伝えたいメッセージを伝えるために、12年もかかってしまったのは、
つまりはこういうことだったのです。
それは、無償の愛の背景にある
「イエスキリストが示してくださったような」という前提を
自分自身が持っていたことに気づけなかったということなのです。
そして、今、12年目に自らクリスチャンだったということを
信仰告白という形で、しっかりと自己言及できたことによって、
ようやく今、このことを正確に伝えられる体制ができました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる
者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わさ
れたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ヨハネによる福音書 3:16-17 新共同訳


クリスチャンとしての前提をシェアできることで、開かれる世界


さて、今日は、キリスト教神学のコアにある三位一体、イエスキリストの十字
架の贖い、福音の三要素についてお話をしました。
こうやって神学的な背景を理解できるようになると、今までなんとなく海外の
宗教なんだなとか、自分とはなんだか縁が薄い文化だなと考えていたキリスト
教や聖書の世界も、なるほどちょっと自分自身とのパーソナルなつながりが見
えてきて、興味が湧いてくると感じていただけるかもしれません。
これはちょうど12年前に、ホロスコープ占星術が全くといっていいほど市民権
がなかった時代に取り組んでいた文化的発信と、とても似ているような気がし
ます。願わくは、12年後にキリスト教の世界観が今の占星術が市民権を得たよ
うに広がってくれたら、ひとりのクリスチャンとしてとても嬉しいです。
そして、そもそも世界中で30%の人が信じているとされるキリスト教ですか
ら、そもそも神学の構成としては、決して複雑なものではないのです。もしそ
れが複雑な神学であれば、人から人へと伝わっていかないですからね。
そして、福音の三要素を信じるだけで救われるというシンプルさ(これを信仰
義認といいます)も、聖書の世界が持つ大きな救いの特徴であり、魅力です。
このキリスト教の背景が理解できると、私が一番伝えたい「無償の愛」の概念
が伝わるというばかりでなく、同時に、西洋の美術や芸術、文化、哲学、政治
など、様々な側面への異文化理解が深くなるのではないかと思います。
こうしたキリスト教という切り口で、新しく開かれる世界を、楽しみながら、
学んでいけるお話を、このリニューアルしたメルマガでは毎週お届けしていき
たいと思います。
今日も、前回に引き続き、長いメッセージとなってしまいましたが…お付き合
いいただきありがとうございました。
今週も、あなたにとって素敵な一週間になることを、
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。


メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。
▽本メールマガジンの配信解除はこちらから
https://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge


(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

カテゴリー: メルマガ【ベツレヘムの星便り】 パーマリンク