月別アーカイブ: 2019年7月

マンデラエフェクトという主の徴

日々の生活の中でマンデラエフェクトという主の徴(しるし)は起こる続ける。一人でも多く福音を知って、原罪からの解放、そして永遠の生命を手に入れて欲しいなと思う。

兄弟姉妹のために祈るパウロの言葉

兄弟姉妹のために祈るパウロの言葉。


「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
‭‭フィリピの信徒への手紙‬ ‭1:8-11‬ ‭新共同訳‬‬

「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭1:16-19‬ ‭新共同訳‬‬

「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭3:14-19‬ ‭新共同訳‬‬

「こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、 光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。」
‭‭コロサイの信徒への手紙‬ ‭1:9-12‬ ‭新共同訳‬‬

自らはしごを外して生きてきた人生

結局のところ、小さいころにイエス様を受け入れて十字架を背負う意味を考え始めてから、道徳感化説をベースにして、受験戦争で人を蹴落として上に上がっていく道に疑問を感じながら、中学受験をわざと失敗し、そこからまた地元の公立中学に入学したのちに死ぬほど努力して、灘高にいっても、いまだ受験のレールの上(社会のエリートコースをそのまま疑問無しに進む)ことに違和感を感じながら、不登校になってみたり、大学を卒業したのちも、大学院に進まず、占い師になるなど、罪悪感から世の中の一般的な成功概念から外れるように、随所随所で自分のはしごを外して生きてきたんだな。今はクリスチャンになって、充足説もしくは(割とクリスチャン業界では批判されがちな)刑罰代償説と出会って、ようやく自分のあるがままが、本当の意味でイエス様の十字架によって贖われていたことを知り、生き方が変わってきたのだと思う。結局のところ僕の人生は聖書の 「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい(ヤコブの手紙1章9節)」 の一言で救われた気がする。イエスキリストへの信仰を持てば、天の前ですべての人は平等になる。これほど素晴らしい世界観は他にない。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

クリスチャニティという門を通じて、合理的な近代人として生まれ変わること

クリスチャンになったことで、占いという迷信から離れて、より科学的、学問的な内容が伝えやすくなったな。
「杏とクルミを一緒に食べると、低GIでダイエットに有効だし、クッキーみたいで美味しい」みたいな情報や、「中小企業の個人経営においても、バランスシートにおける流動比率を80-120%で保つことが大事」みたいな役に立つ情報を、普通に伝えられるようになるんだなと実感。占いだとなんでもかんでも汎神論的象徴に結びつけて、常にサタンの誘惑に晒されながら、いかにそれを乗り越えていくかなんか考えて、ものすんごい周りくどいからね。さらに自分自身が偶像崇拝の的になる(共依存の関係に陥る)という危険を常にはらむという。
ある意味で迷信に基づかない合理的な発信と、信仰という両面をしっかりと分けて伝えられるようになった。
名前をユピテルジョージから、本名の杉本譲治にしたように、得体の知れない「占い師」だった時と比べて、逆にこれからは灘高卒、早稲田大学政経学部出身みたいな、わりと世の中的に受け入れられやすい肩書のほうが、結果的に身を助けていくことになるんだろうなと思う。一応、これまでだって経営コンサルタントとして関わる企業に、しっかりと売り上げを立ててきたコンサルティング会社の社長だしね。
ある意味こうした高学歴ということ自体も、聖書的な信仰を間接的に知っていたからこそ、自分を責めて、呪っていたんだと思う。学歴を自分の経歴で使うこと自体にものすごく抵抗感があった。でも、結局聖書の 「また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい(ヤコブの手紙1章9節)」 という御言葉に救われた。結局、聖書の知識ってものすごく大事なんだなと思う。占い(神智学やグノーシス主義)にそれを求めたが、結局のところそこに答えはなかった。それが明確によく分かった。
なんかようやく普通の人生になってきたのかもな。これも何よりも主イエスキリストのおかげです。。
まぁ、たぶん、そのうちクリスチャン色もしだいになじんでいって、自然に透明になっていき、「作家」「教師」という形になっていくんだろうな。いまは自身がどっぷりと浸かっていた、ニューエイジ文化をメタ認知するための自己批評に、ある種手いっぱいだからね。
これからの生き方は自分の賜物である知性を、主のため、世の中のために献身的に使っていくという明確なイメージが心の内側にあるし、イエス様がそうであったように、より力強く、また謙遜な生き方に近づいていけるのだと思う。そしてそうありたい。
少なくとも占い師という元型を背負って、迷信深く生きる必要はなくなるし、本当の意味で、アカデミズムだけでなく、クリスチャニティという門を通過することで、合理的な近代人として生まれ変わったということなんだろうなと思う。

そもそもこの数年で20キロ痩せたのも別に占いのおかげでもなんでもなくて、普通にインストラクターの先生についてもらって継続的にピラティスを実践して、さらに、自分で食事をしっかりと作って(外食をしないのはもちろんのこと、低GIにこだわるために全粒粉のパンを自分で焼いて作るところまでやってきた)低糖質ダイエットを続けたからなんだよね。
結局占いと一緒にこういう健康についてのコンテンツをからめて発信しなかったのは、そもそも何でもかんでも占い的な象徴に結びつけることが知的ではないということを感じていたからなんだと思う。そもそも迷信と絡めた段階で、多分人はそれを妄信して、決して自分では継続的に実践しないからね。迷信はやっぱり迷信であって、迷信で決してダイエットはできないし、お金の知識だって占いという迷信と絡めることで、やはり間違って伝わると感じてきたからなんだと思う。
そういう意味で主イエスキリスト は、結果的にカント的合理主義に基づく、近代人としてのあるべき姿に正しく導いてくださったということなんだな。

キリスト教信仰と戦争について

特にクリスチャンが弁証学的な話をしている時(なぜ集団救済論において、汎神論ではなく、一神教である必要があるのかについての説明)に、わりとこうしたコミュニケーションのずれが起こりやすいことなんだけれど、クリスチャンが「無償の愛」を伝えるために話しているのに、特に日本の場合「キリスト教=戦争ばかりしている」というレッテルを貼って、拒絶するということが日本ではよく見かける。
これってそもそも最初のメタフレームが、かたや「無償の愛」かたや「暴力」という形で180度ずれているわけで、本当に不幸なことだなと思う。
そもそも自力救済型の汎神論という構造では、弁証学を持つ必要がないので、そもそも集団救済論を持つ一神教が、一神教を維持するために自己言及的に必要な弁証学的な話に、ある種の排他的な拒否感を感じてしまうのだと思う。さらにここに日本の汎神論優位論のフレームが入ってくるので、拒絶感はさらに強まり、だから一神教は独善的でダメだ、こういうことばかりやっているから戦争になるという話になる。
これはディスコミニケーション以外の何物でもない。まるで男女の会話のように、わりと自分と相手のコミュニケーションパターンをメタ認知しないと、永遠にすれ違うということになりかねないと思うし、実際日本ではずっとそうだったんだろうなと感じる機会が非常に多い。

そもそも引き合いに出される戦争のイメージも、第一次世界大戦以降の国と国との戦争ということが前提となる。その意味で、そもそも私たちが国と呼ぶ国民国家という概念自体が、神聖ローマ帝国の崩壊以降、キリスト教共同体から発達していった概念で、キリスト教が私たちの考える戦争の原因なのではない。むしろ十字軍遠征の時代は、日本では鎌倉時代だったわけで、むしろ宗教は力を持たず、 国民国家という概念は当然あり得ないし、 実質的な権力は暴力によって人を支配する構造でしかありえなかった。宗教がひとつの平和な共同体を作ったのはクリスチャン精神(汝の敵を愛せよ)という思想があったからこそ。それは聖書を読めばよく分かる。「汝の敵を愛せよ」といったイエスの思想が、なぜ暴力の思想になるのだろうか?
むしろ、十字軍の遠征の時代、日本では、同じ仏教同士、神道同士である者たちが、自らのそれぞれに信じるカミと正義を中心に据えて、争っていたわけで、こうした汎神論優位主義に基づく、否定はあまり根拠がない話なのだ。

そして、むしろこちらの方がよく引き合いに出される例なのだが、イラク戦争やベトナム戦争、湾岸戦争というWW2以降の特にアメリカの戦争。また、それに対する反戦運動。
しかしここで考えてみてほしいことは、そもそも反戦運動というものは、当時信仰が形骸化し、弱体化していたキリスト教世界における自己批判という形で生まれたニューエイジ文化として世界中に広がっていったもの。そもそも国家神道を中軸としていた戦前の日本において、どれだけの人が戦前信仰に基づいた自己批判をできただろうか?
そして、もし日本が戦利国となった時にどれだけの人が、「汝の敵を愛せよ」という思想に基づいて、「鬼畜米英」として戦っていた相手に対して、自己批判へと立ち返ることができただろうか?今の日本の原発などの問題などを見ていても、決してイエスが示した「汝の敵を愛せよ」「僕として最も低いものとして人に仕えよ」という自己批判に長けた信仰が、今、普遍的に日本人の中にあるうるとは思えない。
まして教理の中に「悔い改め」「原罪」というベースがないために、いつまでも主からの赦しではなく、「技による救い」「自己義認」に頼るほかはなく、どれだけ経済的な支援をしたところで、本当の意味で悔い改めが起こらない限り、隣国の韓国との和解もおぼつかないということに、神学的な不完全性があることは否めないのではないだろうか。確かにアメリカは奴隷制度を通じて、多くの黒人を虐げてきたが、アメイジンググレイスで歌われるように、主の赦しの愛によって、悔い改め、結果的に「黒人(という言葉は差別用語になりうるので、今の時代では正しくはアフリカ系アメリカ人)大統領」 が生まれるまでいたったではないだろうか?こうしたキリスト教信仰が持つダイナミズムを否定して、盲目的な汎神論優位主義、「キリスト教信仰=独善的ですぐに戦争をしたがる」という、戦中の「鬼畜米英」のフレームとそこまで変わらないレッテルで物を見ることこそが、自身が批判している一神教的なエゴイズムと同じものであるといえるのではなかろうかと思う。
あくまでキリスト教の「汝の敵を愛せよ」に立ち返る意味で、自己批判を行ったうえで生まれた思想が、「ニューエイジ文化」であり、「反戦運動」なのだ。ビートルズも、間接的にローマ法王を否定しこそしたが(その後和解する)、イエスキリストそのものは決して否定していない。そうした文脈を理解せず、キリスト教=戦争というイメージを持つことは、正しい理解だとは決していえないであろう。
聖書の時代には、「反戦運動」も、「国民国家」も「奴隷解放運動」もなかったが、いずれも、すでに2000年前に啓示された聖書の御言葉の中で、すべてイエス様が人類に普遍的なメッセージとして「汝の敵を愛せよ」というメッセージで明確に伝えている。奴隷解放運動も、すでにその萌芽が、パウロ書簡の「フィレモンの手紙」の中に、奴隷であったオネシモを、クリスチャンとして自発的に解放してもらえないだろうかとフィレモンに綴る内容として記されている。奴隷制度が常識であって誰も疑っていない時代に、現代の奴隷制度解放運動に繋がる精神的萌芽があること自体が、とても驚異的なこと。これらが散逸したバラバラの教典の一部としてではなく、啓示されまとめられた「一冊の本」の中に全てが記載されているということ自体は、尊重されうるべきことなのではないだろうか。
日本で言うと、卑弥呼がいた時代が2世紀なので、その200年前に、現代社会の全ての基盤となっている聖書の御言葉が、啓示されていたということをあらためて深く感じ取ってみてほしいなと思う。
反戦運動についても、むしろ、イエス様は決して人間は愚かで罪深いので戦争そのものはなくならないということを、聖霊を通じてヨハネの黙示録などを通じて伝えている。また自らの教えを伝えることで決して世界は平和にはならず、むしろ人々は争うことになるだろうとすら伝えている。これは人間の罪の愚かさを十分に分かっているからこそ、現実的に伝えているわけだ。
その中でも、イエス様は、主の教え「汝の敵を愛せよ」とひとりひとりの心の中に伝えることで、必ず世界は最終的に、審判の日以降には、主によって平和がもたらされるということを約束されている。人間の愚かさを直視して、決して理想主義だけに陥らないという意味でも、どの時代にても適応されうる、もしくは今の時代だからこそ深く知るべき、非常に現実的な考え方といえるのではないだろうか。
聖書をしっかりと読むということは、日本人が、国際人として眼を開くうえでも非常に重要なことなのではないかと思う。すくなくともインターネットがより深い世界的変容をもたらしていくなかで、決して避けては通れない日本人特有の課題になるのではないかと思う。

クリスチャニティの倫理がもたらした資本主義の精神

クリスチャニティをベースにしたことで、わりと自由になった話題はお金の話題。ニューエイジ文化の中で、お金を語ることは、多くの場合すぐにマモン崇拝、サタンの誘惑が入り込むことになる。そもそも資本主義経済が発達するベースとなったのは、マックウェーヴァ―がいうように、カルヴァン主義にこそある。カルヴァン主義における予定説によって、禁欲と蓄財という宗教的には二つの相反する行いが、アウフヘーベンされる形で義とされた。これが、資本主義の倫理のコアとなる考え方。自分の十字架を背負わずに、事業をやったところで、価値なんか生み出せないし、そうやって生きる方法以外に多くの人に感動を与えたり、人を救うような、普遍的な価値は生まれない。わりと今の時代に危険なのは、ニューエイジ的な思想に基づいて自分=価値と考えることで、労働の負の効用に根差した確かな土台が無くなり、価値のインフレーションが起こりやすいということ。これはニューエイジ自体が、エゴのインフレーションに陥りやすいことと深く関係している。しかし、そもそもSNSを発達させていった現在のGAFAのような巨大企業自体が、ヒッピーカルチャーからの延長線上にあるニューエイジ文化に基づいて設計されているので、ここになかなか気づけないという問題をはらんでいる。SNS上で起こってきているエコーチェンバー型のカルトの問題は、こうした資本主義×ニューエイジ文化という中で起こるべくして起こっているバブル経済で、真理に基づかないこの構造は必ずバブルが崩壊する時が訪れることになると思う。その意味で、資本主義のコアの倫理観に基づいて、聖書を学ぶことは、中小企業の経営者にとっても、とても大事なことになるのだと思う。日本独自のマモン崇拝を離れて、確かな主をあがめること。これは自分の身を経済的に守るためにも、これからの時代とても大事なものになっていくだろうと思う。

プロテスタンティズムの経済倫理

経済学的に考えたときに、自分の収入を上げていく方法は、簡単に言うと「よく働くこと」これに尽きる。よく働くことで、「労働の負の効用」が増す。「労働の負の効用」が増していけばいくほど、自分が対価としていただくお金は高いものでなければ納得いかなくなっていく。大事なことはこの「よく働く」の意味を、何も「肉体労働」だけではなく、「よく考え、よく学ぶこと」ということとしてとらえる必要があるということ。仕事の本質は、行為の抽象度を高めていくこと。そのためには、よく学ぶことが大事。本を読んだり、物事を深く考える癖をしっかりと身に付けていくことで、人よりも多く「労働の負の効用」を蓄えていけば、おのずと道は開かれることになる。というよりもそうでないと、納得がいかなくなるわけで、おのずと行動がちゃんと対価をもらえるように自然に動き始めていくことになる。つまり努力の上にしっかりと価値が生まれる、この基本原則はどんな時代になっても変わらないものだ。
つまるところ、困っている人を助ける、世の中の価値になるものを一生懸命考えて、提案し続ける。このような、自分の十字架を背負って、主の栄光を讃えるために、生きる覚悟が、資本主義の精神のコアになる倫理といえるのだ。これがプロテスタンティズムの深い部分にある経済倫理。

借金で苦しむニューエイジャーに必要な経済的な知識

わりとニューエイジャーで、セミナーなどで大枚をはたいて借金に追われて苦しんでいる人が多いと思う。これは、これはアクターも含めて。むしろアクターほどそうであることも多い。なぜならアクター自身がこうした借金に追われて、自分を追い込むことで、やむなく稼がなければならないという緊張の中にあるからこそ、事業を拡大させるからだ。しかしこれは本来のスピリチャリティから考えたときに、全く本質的ではないし、負の連鎖が生まれる原因といえる。ここにこそ、ニューエイジ的なマモン(お金)崇拝の罠が存在する。

なぜこうなるのかという背景を考えたときに、経営の安定のために、どれくらいの貯金が必要かということを冷静に教えてくれる人がいないのだと思う。つまり、本質的な諸悪の根源は、アクター側の経営学的な基本知識の欠如にこそあるのだ。

経営学上こうしたことを防ぐ基準は、明確にあって、これを「流動比率」という。大体、月の予算の10ヵ月分~14か月分(仮に毎月20万の経費ならば約2-300万円)は手元に絶対に残していないといけないし、まず最初に作るべきものはこの資本である。

事業の安定性は、臨時支出への体力×定期的支出の体力の掛け算で決まる。つまり10か月分の貯蓄というのは、5ヵ月分×5か月分でリスクが、1/25となるので、4%ととなり、5%以下のリスクを安全性として統計的有意としてとらえれば、10か月の貯蓄をベースとすることがまず何よりも大事。14か月分になれば、これが2%ほどになる。この流動比率を守ることは、本当に鉄則。

こういう経営的知識がないと、アクターの知識の貧困がさらにフォロアーの経済的貧困を生み出すという、貧困ビジネスが蔓延していくことになる。

また、そもそも税金はどのような所得であれ、おおよそ社会保障税や消費税とあわせて、1/3がかかるようになっている。つまり税金を納めずに、決算越しのお金を持つことは難しい。この流動比率はあがらない。節税だと思って、何でも経費として考えていたら一向に流動比率はあがらないし、いつもカツカツの状態が続いていく。何もこれはニューエイジャーだけの問題でなく、意外とこのサイクルの中でずっと苦しんでいる中小企業の方は多いし、特にこの10月からは消費税が10パーセントに上がるので、こういった経済的な知識はものすごく必要なものだと思う。必要な人に届きますように。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

イエスの十字架を神学的にどのようにとらえるか

イエスの十字架をどのように考えるかも、自分の十字架をどのように背負って生きるかという解釈の違いを生み出すので神学的には非常に興味深い。1000年間の間優位だったイエスが人類の代わりにサタンに打ち勝ったとする「勝利者キリスト説(賠償説)」、宗教改革の時代にルターやカルヴァンが神学的土台に据えた「充足説」「刑罰代償説」、自由主義神学の中で主に扱われ、人間の原罪や罰する神という概念を離れた「道徳感化説」など。
聖書を字義通り(ヘブル的に)理解するという信仰義認という教理を中心にすると、「充足説」「刑罰代償説」でなければ論理は整然とは成り立たない。これが福音派の立場。
その一方で一般的にはエキュメニスム運動や、宗教的寛容をメインに据える自由主義神学を中心にすると、「充足説」や「刑罰代償説」では、他宗教に対して排他的な教理にならざるを得ないために、原罪や義の神(神の怒り)の側面を強調しない「道徳感化説」をとる。この欠点は何より構造上信仰義認という教理から離れて、技による救いがメインにならざるを得ないという、非聖書的な理解に近づいてしまうという問題がある。現在の一般的なカソリックの神学的な立場はここになる。聖書はあくまで聖伝の一つであるという立場や、何より組織が巨大だからこそ、プロテスタントのような聖書的神学構造についてはある程度妥協せざるを得ない。
キリスト教教理の中でも、十字架の救いをどのように考えるかで、かなりグラデーションは別れていくことになる。
ただ重要なことはいずれにせよ、「イエスキリストが自分の罪のために十字架で死なれ、墓に葬られ、3日後に復活した」ということを信じれば、どういう十字架理解であろうが人は救われるということ。大局的に見れば、キリストイエスの人格に近づいていくというベクトルは何も変わらない。重要なことはイエスキリストを自らの救い主として受け入れること。このシンプルさと、多様性こそ、キリスト教の持つ豊かさだとも言える。

【ベツレヘムの星便り】361号 「迷い出た羊」のたとえから、創造主の忍耐強い愛について



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/7/28                                 361号


こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。

今週から、週間占いや満月・新月占いなどを長く続けてきた
雄鶏の羽根のサイトをクローズし、こちらの新しいURLのほうに
完全に統合いたしました。
https://seidogaku.com/

新しいサイトのブログでは、
「元占星術師だった私が、なぜ占いを辞めてクリスチャンになったのか?」
というテーマについて、日々語っております。

また、聖書的な世界観をベースにした
個人セッションのほうも新しいサイトのほうで受付を始めました。

これをきっかけに、「無償の愛」についての書である
聖書の御言葉を通じて、自分の心を深い愛で満たし、
また周囲の人たちとの関係性の中で豊かな愛情を分かち合う
人生のための献身をさせていただければと思っております。
https://seidogaku.com/personal_session/



▼「迷い出た羊」のたとえから、創造主の忍耐強い愛について


さて、前回は、天におられる創造主の忍耐強い愛について、
ミニバイブル(ヨハネによる福音書 3:16)についてのお話をしました。
https://seidogaku.com/minibible0316

いかに創造主があなたを愛しておられるかを
心で感じられる方法として、このように自分に語ってみるという方法を
ご紹介しました。

【ミニバイブル】
「創造主は、その独り子をお与えになったほどに、【…あなたの名前…】を愛された。
【…あなたの名前…】が滅びないで、永遠の命を得るためである。

創造主が御子を世に遣わされたのは、【…あなたの名前…】を裁くためではなく、
御子によって【…あなたの名前…】が救われるためである。」

さて、今日は、この前回のメッセージに加えて、
創造主があなたに注いでくださっている
無償の愛のメッセージについてお届けします。

それが、マタイによる福音書において
イエス様が語られる「迷い出た羊」のたとえです。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。
言っておくが、彼らの天使たちは
天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出た
とすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろ
うか。 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十
九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 そのように、これらの小さな者が
一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
マタイによる福音書 18:10, 12-14 新共同訳

いかがでしょう…。とても味わい深いメッセージですね。

決して創造主の無償の愛は、一人一人を見捨てることは無く、
私たちそれぞれが応答するまで、忍耐強く待っておられます。

常にこの創造主の無償の愛が、イエス様の十字架での贖いを通じて、
あなたの傍にあることを感じられるようになった時、
人生は決して一人ではないことに気づけます。

その時、私たちは、このように愛されたように、
初めて人を深く愛せるようになるのです。

人を無償で愛するには、忍耐強さが必要です。
自分が期待したように、すぐに応答されることは稀でしょう。

しかし、
創造主が私たちが応答するのを忍耐強く待っておられることを実感し、
私たちも、同じように気持ちを切らさずに、他者を愛そうと思えるようになった時、
私たちは、すでにもはや孤独の中にはおらず、
深い主の愛の中に生きていることに気づけるのです。

今週もあなたが恵み深い主の愛の中で、癒しを得て、
心豊かな一週間となりますように。

父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。



【個人セッション】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす


人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、
あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、
常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。

人生はいいことばかりではありません。
しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、
愛しておられます。

この個人セッションでは、
聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、
時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供し、
あなたの人生がより良い方向へ向かうように祈り、
また、献身させていただきます。

▼時間の目安 60分から90分程度
▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動
(デボーション)となるため、特定の料金は定めておらず、本活動継続の
ための献金という形でご協力をお願いいたしております。

▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。
何卒、ご理解、ご了承ください。

▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。
▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。
ご予約後に住所をお伝えいたします。

▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った
形にてもご提供いたします。

▼ご予約はこちらから
https://seidogaku.com/personal_session/

「心の貧しい人々(注:謙遜な人々という意)は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。 
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口
を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書 5:3-12 新共同訳



メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。

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いい人であること

今後展開する事業における、新しいサービスは、単純にビジネスコンサルティングや、個人コーチングというだけでなく、聖書の御言葉と世界観に基づいた、人格陶冶というテーマが主軸になるんだと思う。
提供するコーチングも、ヘレニズム的価値観(人間性の解放)と、ヘブル的価値観(アガペー)のバランスが取れた、より確かな世界観にもづいたものを提供しなければ、通用しない時代が来ているように思う。結局のところ、確かな人格をベースに物事は積み上げていかないと、今のスピードの速い時代の中ですぐに滅び去ってしまうことになると思う。何においても、普遍的なものを、価値提供の根本にしないとだね。そういうことを、今回の選挙の動向や、吉本のニュースは教えてくれているのだと思う。ようはリーダーは「いい人でありましょう」という強い社会的なメッセージなんだと思う。

結局のところ、「いい人でありましょう」ということをベースにすると、やっぱどこまでアカデミックにやったってそもそも倫理的な意味合いで、占い師っていうこと自体が、矛盾があるんだよな。それがシンプルに、クリスチャンになって、迷信を廃した理由。
これまで出会ってきた占星術家で、しっかりとした人ほど、この種の自己批判は誰しもがやっていたと思う。社会的に占い師が、マイノリティだったときはまた自己批判だけでよかったが、今や誰しもが自称占い師になる時代になったので、こうした矛盾はさらに社会全体として強くあぶりだされるような時代になっていると思う。吉本の問題も、ある種こういう部分があるのだと思う。社会的な影響力が増すほどに、業界の自己批判、自己規律だけでは保てなくなってくる。「特殊な業界だから」とか、「あの人たち私とは違う」といくら業界内部で主張したところで、結局のところは、外側から見ると本質的には同じことをやっているわけで、そのあたりは今後、ある種の臨界点に達していくのではないだろうか。

そういう意味でもいろいろな業界が、ちゃんと倫理観に基づいて、一度考え直さないといけない時代が来ているのだと思う。そして、こうしたところに、リバイバルの種があるのだと思う。これはどの時代もそうだった。ルネッサンスで個人主義が台頭したのちに、必ずリバイバル(宗教改革)が起こってくるのだ。

才能は賜物であって、主と人に仕えるためのもの。

主に与えられた自分の賜物(才能)は、Gift(才能とプレゼントという両方の意味がある)という呼び名の通り、決して自分個人のものではありえない。我が身を誇ることなく、主の栄光を讃えるために、主に仕えるように、人に仕えていくことが主イエスキリストの教え。主はその憐みのゆえに、ご自身の御子を遣わし、十字架における贖いの御業を通じて、罪深き人間を義としてくださった。

「王のように自信をもって、僕のように人に仕える生き方」。新しい時代には、これがとても大事。結局のところ、政治も、吉本の問題も、ここに行きつくんじゃないだろうか?

父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

ルネッサンスとリバイバル

SNSはある種のルネッサンス文化だったんだな。GAFAもそうだね。資本主義の硬直で行き詰まった社会を、人間性回復運動の思想に基づいて、柔軟性を取り戻す動き。ただその一方で、人間中心主義が行き過ぎるということは、同時に神から離れることを意味し、ここにリバイバルの流れが世界的にも起こってきているということになるんだな。そして日本ではそもそもリバイバルの翻訳が必要ということ。ドリーンバーチュー が福音派に回心してだいぶ経つけど、その歴史的文脈を日本人のニューエイジャーはちゃんと分かってないからね。

目に映るすべてのものはメッセージ「ではない」

目に映るすべてのものはメッセージ「ではない」ことが大事なんだよなと。必ず御言葉に基づいた取捨選択が必要ということ。そのためにも聖書の正しい知識はとても大事。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:13-14‬ ‭新共同訳‬‬

一言でいうと

ひとことでいうと、ニューエイジ思想に左右されずに、地に足をつけましょう、ということかな。

世界的な常識としては、その地に足をつけるに含有される意味合いとして、「クリスチャニティ的に考えて」、ということになる。

時代遅れの悲しきヒッピーたち

もはや2020年代に入るから、何も1970年代の霊性文化をベースにする必要もなくなっているんだよね。もはや50年前の話であって、おじいちゃん世代だからね。むしろ世界的にもニューエイジ思想が飽和し、アメリカでの福音派の勃興などの世界的なリバイバルが起こり始めている今、日本でも、1920年代の内村鑑三や新島襄、中田重治といった、リバイバリストの思想をコアに置いた方がいいんじゃないかと思う。

ニューエイジ思想自体が、メタからベタに変わり、むしろ時代遅れのおじさんたちの思想になってきている。おそらくこうした時代の変化に取り残されていくと、ゆくゆくは老害といわれるようになるのだろう。実際すでに今の若者の感性では「あッー、あの情報商材や自己啓発セミナーの痛い人たち?」と思うだけで、今後人生観を通じて共感することは減っていくと思う。まるで時代遅れのヒッピーたち、もしくはジュリアナ東京で訳もなく踊り狂っていたバブリー世代を見るような目線で…。

日本におけるニューエイジ文化の終焉

揺れ動く感情という不確かなものではなく、主によって万物が創造される以前から存在している御言葉という確かなものに積み上げていければ、事業は安定する。それが本来のクリスチャニティから生まれた資本主義の精神。
ニューエイジ文化においても、事業的に長年ずっとうまく行っている人は、そもそもこうしたクリスチャニティ教育をどこかで必ず受けていて、そうした世界観に知らず知らずのうちに生きている。結局、ニューエイジ事業といっても、ビジネスである以上、価値を与え着付けていかないと安定した事業にはならないから。
ずっと日本においては、教会文化が非常に弱かったので、こうした人たちのよりどころは昔は、ニューエイジしかなかったということ。
しかし今は、リバイバルの時代なので、ようやくクリスチャニティが明文化される時代が来ている。 であるならば、何もわざわざ危険なニューエイジ文化の言語で話す必要は一切ないわけだ。

ニューエイジの本質はルネッサンス(人間性回復運動)にあり、90年代以降形骸化した社会システムの中で歯を食いしばって歯車になって生きてきた日本人を救った考え方。しかし、同時に歴史的に見ると、ルネッサンスと対になって現れるのが、キリスト教信仰の回復(リバイバル)で、ルネッサンス的世界観だと方向性的には宗教的堕落を生み出していくので、必ず反動でリバイバルが起こることになっている。これは歴史的真実。

 中世のヨーロッパで近代に向かう前に、ルネッサンスと宗教改革が同時に起こったことは、このルネッサンスとリバイバルという対になる現象の一つの大きな鋳型となっている。これは様々な文化が国際的にまじりあう時代に必ず起こる現象。そもそもキリスト教自体も、ヘレニズムの時代に成立した宗教。
皆、今は日本においてもSNSの台頭で、異口同音にルネッサンス(人間性回復運動)の論説になびいているが、世界全体は大きな波であるリバイバルの時代に入りつつある。霊的な文脈を正しく理解できる人は、おそらくこれからの10年を世界的なリバイバルの時代ととらえるだろうと思う。日本においても、安易なニューエイジ論になびかずに、時代の先端をしっかりと見て、世界的にやってくる大きな波であるところのリバイバルを、非クリスチャン国家である日本人に対して、いかに文化翻訳できるかが、価値ある仕事ができるかどうかという軸になると思う。

日本におけるニューエイジ文化の終焉と、クリスチャニティの到来というのが今後の重要な研究課題になっていくね。

キリスト教信仰から見たシンクロニシティ

キリスト教において主への信仰に基づくシンクロニシティは聖霊の働きの範囲内。つまりその源が主にあることという信仰に基づき、聖書に調和しているかどうかが前提となる。
しかし、ユングのシンクロニシティの場合は汎神論的な世界にそれを広げた。ある意味シンクロニシティとは容易に諸霊(悪霊)が働きかけることができる。しかしこれは汎神論ではこの霊がどんな霊かを問うことがない。ここにサタンや悪霊が入り込む隙間が常にある。
故にシンクロニシティの全てを是とする考え方は、大いに霊的に危険な側面があると言える。これがキリスト教的な文脈において占いが迷信である理由だ。
ユングが提唱したシンクロニシティは、ジェームズレッドフィールドの聖なる予言で、ニューエイジ文化 の中でも一般化したが、この辺りはしっかりとメタ認知して、無条件に鵜呑みにするのではなく、再考しなければならない概念だと思う。

サタンや悪霊からすると、ニューエイジャー に対して自らに与するようにシンクロニシティを起こせばいいわけで、サタンにとってそれはなんのことはないこと。

「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」
‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭11:13-15‬ ‭新共同訳‬‬

ニューエイジャーが陥りがちな、無駄な人生のアップダウン

つまりニューエイジャー は、迷信を信じているから、人生のアップダウンが激しいんだな。なるほど。

「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」
‭‭詩編‬ ‭1:1-6‬ ‭新共同訳‬‬

SNS社会におけるエコーチェンバー型群発カルトから身を守るために

つまりエコーチェンバー化の影響で、SNSで怪しいニューエイジ 情報や発信者がものすごい増えているけれど、聖書の知識が少しでもあれば、自信を持って「それって単なる迷信ですよね?」の一言で済む。もし相手が自分がやっていることは科学的で量子力学がどうこう言い始めたら、聖書読んだことありますか?と聞けば良い。読んだことがなければそもそもモグリだし、読んだことがあるといえば明確な嘘になる。少しでも読めばニューエイジ(当時はグノーシス主義やマニ教と言われた)や、技による救い(自己義認)が、全面的に論破されていることを知らないはずがない。こういうやりとりがそもそも日本に全くないわけだな。。聖書の知識とイエスキリストへの信仰さえあれば、このやりとりだけでエコーチェンバー型カルトから身を守れる。

占いは迷信である

ようはシンプルにいうとクリスチャニティ からすると占いは迷信であるということ。こういう世界的常識が日本にはなかった。
日本人にとって科学的精神(近代合理主義)は明治維新で取り入れたからこの視点からは占いは迷信であると理解できたが、もう一つの側面が抜けていたということだね。クリスチャニティ という視点から、占いという迷信を信じるのはやめましょうということが、僕の一つの新しいメッセージになるんだな。
科学的精神が大事なのと同じくらい、クリスチャニティ は大事だということをしっかりと示して行くことが大事なんだな。そこが日本の文化には抜けているわけだ。
それがオウム事件や、現在のニューエイジ 的文化の腐敗に繋がったというわけか。つまり自称スピリチャリストで、ニューエイジ稼業をやっている人は、そもそもそれが単なる迷信だということすら知らず、聖書すら読んだことがない厳然とした偽物ということになるわけだ。

海外では占いを信じる人は「Oh you are so superstitious.(なんて迷信深いの)」とバカにされる。実際占い師だった時に海外に行ったら占星術家にさえ、バカにされないかとよく聞かれた。これはようはクリスチャニティ から見た時の意味での迷信という意味だったんだな。今はよくわかる。占いもニューエイジも、全くもって迷信に過ぎないと。

ヘブル主義において啓示されたロゴス

ヘブル主義とヘレニズム主義の大きな違いは、ヘブル主義においてロゴス(ヨハネの福音書1章の「言葉」とは、主イエスキリストのことであり、また原文では「ロゴス」という)とは主によって啓示されたもので不変のもの。ヘレニズム主義におけるロゴスは、あくまで人間の思惟によって明らかにされた仮説にしかすぎなく、常に時代の変遷によって修正が加えられ続けていくもの。啓示宗教と、人間が考えた信念体系とは、よって立つものが全然違う。ここがヘブル主義の前提となる仕組み。

日本のニューエイジ文化に見られるカルト的信仰の背景

ニューエイジ文化が、商業化して、霊的に堕落していく大きな原因であるパワースポットや開運などの認知フレームを、「迷信」と批判するときは、ヘレニズム主義からみた科学的な見地からの批判では不十分で、結果的にへブル主義的見地から見た批判が必要だということだね。
そもそも多くのニューエイジャーはこれを「量子力学」でもいわれていることと自己弁護するが、はっきりいってそう主張するニューエイジャーは、シュレディンガー方程式のベースとなる波動関数の一つでも使って、数学的に説明する人を見たことがない。
少なくともシュレディンガー方程式のもととなっている波動関数を正確に理解するためには、大学数学程度の知識は最低限必要なはずで、しかしそういう人の経歴を見たときに、基本的な物理学的知識、数学的の知識をどこで教育を受けたのだろうかと疑問に思うことがしばしば。もしそうでないならば、単なる詐欺、詐称じゃないかと思う。単純にアニミズム的信仰を、ニューエイジ本で読んだ受け入りの知識で覆い隠しているだけなのでは?と思うし、もしそうならば、正直にそう言うべきなのではないかと思う。それが自身がよって立っていると主張する科学的精神なのでは?と思う。
こういった類のヘレニズム主義からの批判と同時に、今度はヘブル主義からの批判からも、受け入れる体力はあるのだろうか?たとえ、カント的合理主義からの批判に耐えたとしても、今度は、ヘブル主義からの批判に耐えうることはできるのだろうか?日本でも、科学者がニューエイジャー的傾向を持つことは多いのだが(そもそも科学というもの自体がそもそも、非へブル主義であり、思想的な背景はグノーシス主義や、新プラトン主義といったヘレニズム主義がベースとなる)、聖書的世界観を踏まえた理論物理学者というのも聞いたことがない。その信仰は、あくまで仏教や神道などのアニミズム的な世界観に基づいている。
少なくとも西洋におけるニューエイジ文化はこうした批判に耐えることが前提として成り立っている。ニューエイジ文化を生きるということは西洋において、こういう両極からの批判という緊張をはらんだうえで、活動していくことが前提であって、日本においてこうした諸外国では常識ともいえる前提がスルーされているということ自体が、日本のカルト的信仰の温床になっているのではないかと思う。

ヘブル主義から見た「迷信」について

そういえば最近、迷信という言葉を聞かないね。迷信っていう言葉は、西洋においてはカント的理性主義からのものだけではなく、キリスト教からの視点からも批判が加えられることが当然であるということはとても大事な論点だと思う。しかし日本ではこのクリスチャニティ からの迷信への批判という文脈はほぼ皆無。故にオウム事件のようなカルト事件が起こる。ニューエイジ =迷信であるということを、合理主義という観点からだけでなく、霊的な視点、つまりキリスト教神学からの批判もしっかりと受けなければならないのではないかと思う。そのためには日本のニューエイジャー は、聖書を読むことが何にもおいて非常に重要なことなのではないかと思う。そうすれば自分が迷信に囚われていた、騙されていたことにはっきりと気づくことになると思う。

つまり「迷信」という概念は、キリスト教すなわちヘブル主義的観点からも、科学すなわちヘレニズム主義的観点からも、両方から批判されるべき対象であるということなのだ。日本はアニミズム的信仰がメインで、そもそも本格的な一神教への回心、リバイバルが起きていないので、この種の「迷信」に半面においてしか対応ができていないという脆弱性があるわけだ。

このあたりのヘブル主義がしっかりと根付かない限り、日本における失われた30年というのは永遠に去らないのではないかと思う。カネがカミでありえなくなった今(本来元々そうなりえないのだが、戦後の荒廃の中ではそれがリアリティを持ちえた)、日本人が主によって召され、救われること、汎神論から一神教へのリバイバルは非常に重要なテーマになるのだと思う。

ポストモダンとプレモダン

一神教というフレームは、脱魔術化といえる。創造主以外のこの世の神への信仰を離れるため、全てが主を通じた因果関係に紐続けられるようになる。それゆえ、人間の思惟は、迷いごとから離れ、一貫性にある思索、他者と共有できる信仰体系へと方向付けられるようになる。一神教のフレームは西洋近代社会へと通づる重要なOSになっている。あくまでポストモダンにおける多神教優位論は、こうした一神教のフレームの上に成り立っていることで、そうした歴史的系譜を知らずに多神教優位論に立つことは、ポストモダンではなく、あくまでプレモダンであり、単なる恥ずべき無知に他ならない。

西洋では思想の両極性は、常に歴史上ヘレニズム主義(人間中心主義)とヘブル主義(神 中心主義)の二極性のバランスで成り立っているが(ルネッサンスとリバイバルを繰り替えす)、日本の場合そもそもヘブル主義を導入することを失敗したため、この構造が前近代(明治維新以前)と近代以降(明治維新以降)という二極性に取って代わられている。しかしここで重要なことは、決してこの西洋におけるヘブル主義とヘレニズム主義という二極と、日本における前近代と近代という枠組みは相互に互換するものではないということ。日本の場合、このヘブル主義の不在こそ、神不在の概念になり、共有できる神話がないため、経済がこのコアに居座り続けていることになっている。これは非常に不幸なことである。カネは決して自分の罪のために死んでくれることはないからである。

日本で教えられる世界史の中で、ヘレニズム主義をベースとしたルネッサンスだけを扱って、ヘブル主義を中心としたリバイバルを扱わないのも恣意的だなと思う。本来ルネッサンスとリバイバルは常に対になる概念だと言える。
そもそもルターやカルヴァンによる宗教改革は、ルネッサンス(人間中心主義)と対になるリバイバル(神中心主義)の原型だったわけで、そういう世界的には常識と言える概念を日本の世界史教育の中でもほとんど触れないのは、ちょっとどうかなと思う。

テクノロジーの進化とSNSに台頭によってヘレニズム主義が台頭する世界では一方で、福音派の興隆というリバイバルが起きつつある。SNSはある意味ルネッサンス的な文脈であり、ルネッサンスの神学は常にグノーシス主義、ネオプラトニズムになるのだが、それが起こってくると同時に、ルネッサンスと対になるリバイバル、ヘブル神学が起こってくるようになる。これは歴史上なんども繰り返し起きていることであって、世界の潮流をしっかりと踏まえる上で必要な認識のためのフレームだといえる。

主は人を愛しておられるから、ルネッサンス化が極まった時に、聖霊の注ぎを通じてリバイバルを起こさせるということでもあると思う。いつの時代もそうだった。

情報発信

思惟への奉仕の中核は、ネットを通じて、情報を発信していくことになるな。やはり、今の時代はいつでもどこでも情報が無料で観れる時代だからこそ、ネットでコツコツと情報を発信していくことがものすごく大事。継続こそ力なりだね。

資本主義のコア

マーケティング的に考えれば、日本社会のカミである経済を中心に商品を設計すればサービスは売れるのだと思う。しかし、そもそもそのカミに仕えることは、結果的に偶像崇拝であって、身を滅ぼすことになる。大事なのは、主に仕えることであって、結果的にそうすることで、富も誉れもついてくるというのがユダヤ人(旧約聖書)、あるいはクリスチャンの教え(新旧両訳聖書)。
特に資本主義のコアには、プロテスタンティズムがあり、キリスト教のコアは、十字架を背負うこと。罪なきイエスが、自分の罪を背負って死んでくださったように、無実の自分が相手の罪をかぶって贖うことが、クリスチャンが考える無償の愛。この刑罰代償の概念なしに、無償の愛も、それに基いた献身や赦しはありえない。常に自分の十字架を背負うことが非常に大切。
社会の中で一番貧しく、弱い人ほど、一番社会に必要な人。その十字架を背負うことがクリスチャンの生き方なのだと思う。

そもそもサービスとは献身であって、サーヴァントは僕(しもべ)という意味。資本主義のコアである付加価値の創造は、僕(しもべ)として人に仕えることにある。
この辺りは最近のニューエイジャー が、自分の価値を認めること=お金であるということをただただ鵜呑みにして取り入れているが、あまりにも雑な論議。一度しっかりと見つめなおすべきテーマだと思う。
確実に今のマモン崇拝をコアに置いたニューエイジ 文化は、エゴのインフレーションによって、バブル経済とその崩壊に瀕していると思う。人は罪人であるから、自己義認によっては決して自己に価値を見出すことは絶対にありえない。資本主義がなぜプロテスタンティズム(カルヴァン主義) をベースに成り立ったのか、マックスウェーバーがプロ倫で論じたように、正しく資本主義の成立の歴史について知り、基本に忠実であることはとても大事。

人助けが基本

霊的な仕事は(教育も)、人助けに始まり、人助けに終わる。結局ここが一番大事。日本社会が、格差社会から階級社会に移動しつつある今、今の時代に必要な人助けは、こうした社会状況の変化に対応するものなのだと思う。階級社会は良くないと思うんだよね。天の前では人は平等。こう言う精神をどのように地上に作っていくかが、霊的な仕事において非常に大事なものになると思う。霊的なことを仕事にする上で、そうでなければもぐりなんじゃないかな。

現代のカルト

どうもいろいろなデーターを調べていくと2016年から格差社会が固定され、階級社会化が進んでいるね。以前は、小泉政権移行、自己啓発などを学び、ニューエイジ的な言説に乗っかることによって、ITバブルも伴って、豊かさを実感することができた。当時は起業自体に様々な社会的リスクがあったので、数が限られアクターにも希少性があった。むしろ今はそうしたニューエコノミーによる経済格差が進んで、むしろ階級社会となってしまっており、いくらニューエイジ的な文脈を学んだとしても、すでにそういう商機自体が存在していないため(つまり自己啓発ビジネス自体が、レッドオーシャン化してしまっている)、その壁を超えることが難しくなってしまっている。というのもニューエイジ的な言説自体が、すでに貧困ビジネスになってしまっているから。ニューエイジ的な言説を学んで実践するほど、貧困化してしまうという矛盾が、2016年くらいからすごい勢いで広がりつつあるということなんだなと思う。このあたりの流れが、今のアメブロなどでも広がってきている要素なのだなと思うし、こうした流れは非常に危険なものだと思ったほうがいいと思う。

そういう流れの中で、日本のニューエイジ的な言説が、だんだん本来のGAFAに見られるインテリ的文脈から、ヤンキー的な文脈に移行しつつあるのをものすごく感じる。社会が階級化していくということは、ある種ヤンキー的な文脈がメインストリームになっていくということでもある。すでにYouTubeの主力コンテンツは、こうしたヤンキー的文脈なしには語れない。心理学のヤンキー化といってもいいのかな?YouTube(もしくはYouTuber)も、マーケティング的に、ヤンキー文脈はむしろアクター側は、意識して、積極的に取り入れているのだと思う。
アメリカでは、そういう文脈の中に、ヒップホップミュージシャンのカニエウエストのクリスチャニティなどのリバイバルが起こり始めているんだろうね。おそらく。本来クリスチャニティと格差社会とは、思想的に非常に相性がいい。基本は、貧者のための救済論(無論、本質は万人救済)。
むしろニューエイジ的な言説は、日本に進みつつある階級社会には対応できない。なぜならニューエイジは、本来「知」による救いであって、そのルーツは、インテリの文化だから。
ゆえに歴史的に見ても、2016年あたりから広がりつつある貧困ビジネスとしてのニューエイジはどこかで破局を迎えることになると思う。というか、そうした破局が限りなく近づいている気がする。こうした視点から考えてみても、思想的には非可逆的にクリスチャニティに移動していくと思う。結果的にそれがクリスチャニティのリバイバルにもつながっていくだろうと思う。

そもそも階級社会が進むのは、戦後の日本のカミに「経済」が居座り続けているからであって、この中心に「良心(無償の愛)」が来ない限り、永遠に格差社会や、階級社会はなくならない。その「良心(無償の愛)」こそ、「主イエスキリストの御言葉」であり、何より「主イエスキリストの十字架における贖い」であるということに気づいてほしいなと思う。

スピリチャル業界の腐敗

スピリチュアル業界の混沌とした感じが今年に入ってからすごいことになっているな。多分昨年12月のアメブロの商用利用解禁なども原因なんだと思うが、SNSのエコーチェンバー化と相まって、完全に商業主義と一緒になって堕落して行ってる。これを腐敗と呼ばずになんというのだろう。まるでネットワークビジネスを見ているかのように思う。そこに霊的な真実はないかと。

そもそもこうなって行く原因を辿ると、結局のところ戦前の国家神道制が崩れて、戦後に経済中心主義になって以来、結局カミの中心に経済発展という神話があり続けてきたということなんだな。かといってそもそもそれを乗り越えようと思っても、アニミズムではそもそも共有できる神概念ではないので、アニミズムでは、中核は神学的に担えない(ゆえに近代化の中で廃仏毀釈や国家神道制を導入した)。ゆえに伝統的なアニミズムでもなく、資本主義でもないわけのわからないニューエイジ ビジネスが跋扈しつつある。この辺りが今の日本は混沌としているし、結構やばい状態になっていると思う。割とそう遠くない時期に経済的被害、人間関係的な堕落、倫理的堕落を伴ったプチオウムのような事件がおそらく群発していくんだろうなと思う。

贖宥状(免罪符)ビジネスがすごいね。セミナーに出れば、自分の知識やノウハウで人類の原罪が贖われるとでもいうのだろうか? 我々罪にまみれた一般庶民が、いつから人類の救世主になったのだろう?この変貌ぶりはまるでネットワークビジネスにはまっておかしくなっちゃった友人を見ているかのような気持ち。イエスキリストの十字架の贖罪以外にありえないという批判に、日本のニューエイジ の贖宥状ビジネスは、どこまで耐えうるんだろう? すでに海外のニューエイジ の騎手たちには、リバイバルが広がっているというのに。愚かだなと思うし、救われて欲しいなと深く感じる。

燃え盛る炎。注がれる聖霊によるリバイバル。

聖書において、聖霊は炎としてよく描かれる。使徒行伝2章3節のペンテコステの炎の舌もそうだし、エゼキエル書1章4節の炎のまぼろし、マタイ伝3章11節の聖霊と火とのバプテスマなど。
聖霊は炎のようであるがゆえに、クリスチャンに強い情熱を与える。そして、聖霊が大いに注がれるリバイバルの時代には、燃え広がるような信仰の覚醒を世界中にもたらしていく。日本にもこうした聖霊の炎が燃え広がるリバイバルの日が、刻一刻と近づいている。

王と僕という人格の同居―主イエスキリスト

主イエスキリストの十字架を信じ、聖霊の注ぎを受けると、主イエスキリストの人格へと近づいていこうと、栄化へと向かう聖化が始まる。主イエスキリストとは、王であり、また僕(しもべ)である。王のような存在感と、僕のような献身が、一人の人格の中に同居するようになる。参議院選挙や、吉本の不祥事なども含めて、その背景には力強いリーダーを求める人々の気持ちが背景にあるが、リーダーとはすなわち主イエスキリストのように人々の一人一人を認識する力強い王であり、また、社会の中で最も低きものとしてすべての人の僕(しもべ)であるという二つの側面を持つ。こうした視点は、決してお気軽ニューエイジ的な文脈には持ちえないこと。クリスチャニティにおいてしか、決して、なしえないこと。主こそ我が誉れ。混迷する、日本にリバイバルを。主の栄光はとこしえに。アーメン。

サイトの引っ越し

旧サイトから新サイトへと完全に移行完了。週間占いや新月満月占いなどで12年発信してきた雄鶏の羽根のサイトが完全になくなり、新サイトでは全てクリスチャニティに基づく内容に。本当に心機一転、全く新しい人生のスタートがここでも始まりました。万軍の主とともに。アーメン。

宇宙そのものは決して神ではない

占星術師をずっとやってきて、よくわかったことは、宇宙そのものは決しては神ではないということ。宇宙とつながるという言葉や、宇宙からのメッセージというのは、あくまで汎神論的な世界観をベースにした考え方であり、あくまで人間が考えた上で作り出した宗教である。カルデアの神官たちも、汎神論的な世界観をベースにして、星の動きを観測して、そこに神を見出そうとしたわけだ。
仏教も、基本的に「汎神論」的な思索から始まり、最終的にすべての境界が無くなった、大いなるものを神としてとらえる。またその実体を作るのは自分の心であるととらえる「唯心論」となり、また仏法を明らめることで神が分かるという「理神論」という形態をとりつつ、しかし最終的にそれすらも実在しないという「無神論」を説くが、決して聖書のように万能の神が、世界を創造したという聖書的で啓示された神の概念「一神教」の世界にはならない。
やはりこのあたりのパラダイムをしっかりと理解することは、聖書の神概念をしっかりと理解するために絶対的に必要な思惟のプロセスになるといえる。

GAFAとヘレニズム主義(なぜ今聖書を読むべきか?)

Google(YouTube)、Amazon、Facebook、Apple(iPhone)(最近はGAFAというらしい)などのネットサービスも登場してわずか数年で世界で有数の巨大企業になった。
日本におけるクリスチャニティのリバイバルも、まさにこういう形で一気に広がっていくことになる。今は風前の灯火ともいえる日本のクリスチャニティも、聖霊の注ぎによってリバイバルが起こる時には、とんでもないスピードで広がり始めると思う。少なくとも私たちが生きている時代はまさにそういう時代なのだ。

ちなみにGAFAの背景にある哲学は、ヘレニズム主義(人間中心主義、ヒューマニズム)にある。もともとはヒッピーカルチャーやニューエイジ文化のように、体制に対するカウンターカルチャーだったヘレニズム主義が、今は、むしろ体制側、メインストリームとなったのが今の時代。今の世の中のトレンドを形作っている動きの、背景にある思想をしっかりと知ることはとても大事なこと。ヘレニズム主義をよく理解するという意味でも、聖書を通じて、その反対の極にあるヘブル主義(創造主中心主義)を学ぶことは大事。

そもそもGAFAのシステムの設計思想が、ニューエイジ的なものなので、人々の意識がニューエイジの方向に向かうのは自然。特に、日本においてヘブル主義的な価値観がないため、諸外国よりも免疫がない。ゆえにニューエイジ的な弊害はむしろたくさん出てくるといえる。そもそも、エコーチェンバー化は、こうしたGAFAの設計思想にある重大な欠陥だといえる。このあたりを思想的に乗り越えていかなければならないと思う。

つまりSNSの設計思想上、SNSへの依存度が高まるほどに、知らず知らずの間に、ニューエイジ 的な思想になっていくということでもあるのかもね。SNSの論説が、エコーチェンバー化する理由はこうしたヘレニズム的な設計思想も背景にあるんだと思う。

まぁ基本的な設計思想は、いいね!をもらうために、何も考えなくとも、スマホを開いてパブロフの犬のようにずっと自己言及し続けるという構造だからね。人と繋がっているようで、本質的には繋がっていない。無論、facebookやインスタといったSNS自体の利益とは繋がっているだろう。そもそもSNSができるまで、人は日々の生活の中で、ここまで毎日自己言及しなかった。SNSという形で読まれる日記だからこそ、内容も盛るし、自己演出もする。

もし読まれる前提もなく、日記で自分を盛ったり、演出していたら、ただの気持ち悪い過度なナルシシスト。SNSはこうしたある種のナルシシズムに基づいていて、そもそも人に興味がない。こういうところに疲れる人は、SNSから離れて行くだろうし、ニューエイジ 的思想を強化して行くことに抵抗を感じない人は、どんどん深みにはまって行く。

そしてミイラ取りがミイラになるように、結局ニューエイジ 的商業主義に巻き込まれて、自分の生活もニューエイジ 的経済に乗っかっていくといよいよやめられなくなる。ニューエイジ ビジネスをしている人の発信を続けられる心理状態って、そういう構造なんだと思う。エーリッヒフロムが「悪について」で述べるように、こういったナルシシズム的構造から悪が生まれてくるのだと思う。ニューエイジ の本質ってある種のナルシシズムなんだよな。こういう矛盾を今の日本のSNSは抱えているように思う。

巨大なリバイバル

聖霊に満たされ、日に日にものすごく巨大なリバイバルが日本に起こりつつあるのを実感する。主こそ我が誉れ。

マンデラエフェクトと携挙の関係性

やはり、いろいろデーターをとっていっても、マンデラエフェクトは、携挙と深く関係しているようだ。マンデラエフェクトを認識できる人のほとんどがクリスチャン。もしくはイエスキリストの復活を信じている人。この2年半ずっとデーターをとっているが、どうも、ほぼ間違いがないようだ。

ライフワーク

しみじみ福音伝道はライフワーク。マンデラエフェクトをはじめとした、ここ数年ずっと追ってきた研究材料をしっかりと説明できるのは聖書だけ。

注解書

ディボーショナル聖書注解/ファイヤーバイブル/内村鑑三全集/NTD聖書注解/新実用聖書注解/ウェスレリアン聖書注解/新約聖書一日一章/カール・バルトローマ書講解と、ひとまず一通り聖書の注釈書がそろったので、これからしっかりと精読していく。何よりも聖霊を通じた主とイエスキリストとの交わり、祈りを大切にしながら。その後、聖書学校や、神学校などにも通うことがテーマになっていくのだと思う。
思惟への奉仕には、しっかりとした神学的知識や聖書注解力が大切だなと、しみじみと感じる。

思惟への奉仕と、証を積み重ねること。

思惟への奉仕をして、証を積み重ねていくことは、科学的なアプローチと何も変わらない。その世界観の違いは、万能の主が啓示された御言葉を礎にするものなのか、罪深き人間の揺れ動きやすい感情や、無知の知によるものなのかという違いである。思惟への奉仕と証を積み重ねるという意味においては、その真実性を伝えるアプローチそのものは科学的アプローチと変わらないともいえる。
ニューエイジャーが、自分の成功体験をSNSなどで誇示するのは、いうなれば「証」のつもりであって、ニューエイジの自分を愛するという論説は、「思惟への奉仕」のような体裁をとる。しかしそもそも背景としているものが、罪深き人間の揺れ動きやすい感情の上に成り立つものであって、結局のところ、最終的にはそれが機能しないということを「証」してしまうことになる。
「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」
詩編 1:6 新共同訳

「思惟への奉仕」とセットになる「証」について

福音を伝えていくことにおいて、「思惟への奉仕」とセットになるのが、「証」である。これは何も福音に限らず全ての物事にいえること。例えば、科学において、ニュートンは、人々に重力を信じさせたのではなく、なぜ物が落ちるのかという思惟について、人々に奉仕をして、その上で、それが存在するという証をしたわけだ。クリスチャンの伝道も同じようなものである。イエスキリストが存在していることは、クリスチャンにとって、重力が厳然と存在していることと同じで、疑いようのないものである。しかしそれを相手が信じるかどうかは、あくまで相手を「信じさせる」ことはできない。外的召命は常に無効なのだ。それができうるのは自分の力ではなく、聖霊の働き、つまり主の御心においてのみである。あくまでできることは、相手の思惟への奉仕を通じて、自分が信じるに至った「証」を述べ広く伝えていくことしかできない。一番の証は、自分がイエスキリストによって救われて、生き方の全てが変わったことこそが、何よりも一番大きな「証」となる。福音がもたらす最大の「証」は、人が罪によってではなく、義によって生きるようになること。すなわちイエスキリストが伝えたように「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。(右手が行う人への奉仕を、左手が気づかないくらいに自然にやりなさいの意味)」の御言葉通りに生きていくこと自体が、最大の「証」となる。私たちは、自分の行いによって義とされるのではなく、イエスキリストの十字架での贖いへの信仰という恵みの愛を通じて、義とされたように、私たちもまた無償の愛で人に接していくことが、結果的に神の栄光を讃えることになっていくのだ。
つまりクリスチャンにとって主の威光を表す無償の愛は、救われるための善行(行為義認)では決してなく、主の栄光を示す証であるということ。無償の愛に生きること、汝の敵を愛す生き方こそ、自己目的ではなく、証のための行いとなる。これが信仰義認における行いの重要な定義となる。

アニミズム脳とクリスチャン脳

一神教が、汎神論と大きく異なる部分は、自然そのものが神であったり、自然の中に神がいると考えるのではなく、神が自然を創造したという世界観を持つこと。創造主が形作った被造物である自然を偶像崇拝するのではなく、創造主自身を祈りと信仰の対象とすること。これは本当に、月とすっぽんほどに違う営み。
つまり自然の中で癒されるというのは汎神論的考え方で、大自然を作りたもうた創造主から常に愛されていると考えるのが一神教のフレーム。このフレームをちゃんと理解しないと、聖書の御言葉(みことば)は入ってきずらい。
アニミズム脳から、クリスチャン脳へのOSのバージョンアップがないと、肝心のアプリは動かない。アニミズム脳では、瞑想をしたり、自然の中に行かないと神を感じられない。ゆえに人は「癒し」を求める。クリスチャン脳は、聖書と御言葉、祈りを通じて、常に創造主が聖霊を通じて、24時間どんな時でも、人生に活力、生気を与えてくださる。「アニミズム的な癒し」は常に、限定的。しかし、「クリスチャンの救い」は永続的で、失われることは無い。「癒し」と「救い」は似て非なるものだ。