月別アーカイブ: 2019年8月

いい会だった

今日のエクレシア、色々凄過ぎて言葉にならないね。言語では一切追いつかない途方もなくいい会だった。言語が追いつくまで3日はかかるだろうな…。

エクレシア、ミニストリーってすごい。そういうダイナミズムを今日はしみじみと感じた。

主の御名においてお祈りします。アーメン。

情報の共有から、信の共有の時代へ

やはりしみじみ実感するのは情報は信仰をコアとして集まってくるということ。エコーチェンバー化する時代において、非エコーチェンバー型の教理でありながら、信仰を共有できる聖書というものが今後果たしていく役割は非常に大きいと実感する。
確実に今の時代は、情報化時代から信仰化時代に入りつつある。

進化論の否定

聖書の世界では、進化論は否定されおり(というよりもそもそも進化論自体が聖書を否定するために生まれたが強い)、まぁこれはマンデラエフェクトなどを見ればわかる通り、確かに直線時間は神の被造物に過ぎず、その視点においても、聖書のロジックは、進化論を否定しうるだけの強度を持っている。まぁ、このことよりもむしろ大事なことは、進化論が、実質的な進化論の枠組みを超えて、神智学の中で、「霊的進化論」という形で取り入れられたことは非常に重要な側面があるといえる。宗教的文化がダーウィンの「霊的進化論」を取り入れたことによって、アセンションなどをはじめとした新しいスピリチュアリズムの文脈が登場した。「霊的な淘汰とそれによる人類進化」という概念も、もともとは聖書的な概念ではなく、あくまでダーウィンの進化論から派生した考え方。スピリチュアリズムにおけるアセンションと、聖書的な携挙という概念の大きな違いを理解するうえでは、こうした「進化論」という背景もしっかりと見つめる必要があると思う。

自己啓発の文脈においても、わりとこのニューエイジ独特の「霊的進化論」は幅を利かせているように思う。こうしたところからも、サタンの介入はあるのだと思う。

占いがなぜ非聖書的か

そもそもの前提として、クリスチャンになって占い師をやめた理由があまり理解されていないが、聖書では明確に占い師やニューエイジ的営みをすることは固く禁止されていて、旧約聖書の時代には死刑に値する非常に重大な罪だった。西洋社会では常識。それを知った上で海外の占星術家などはあえてやっているが、日本ではこうした常識を知っている人が非常に少ない。

「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。 あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。」
‭‭申命記‬ ‭18:10-13‬ ‭新共同訳‬‬

「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。 あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。 その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」
‭‭申命記‬ ‭13:2-6‬ ‭新共同訳

クリスチャニティのメタフレーム

クリスチャニティのフレームが馴染んできた。それ以前に取り組んできた物事も、さらに色々なメタフレームで見れるようになっていく感じだろうなと思う。特にビジネスの領域は、クリスチャニティのメタフレームがあることで、ビジネスセンスという非言語的な部分が非常に合理的に説明がつく。この辺りはクリスチャニティのフレームが馴染めば馴染むほどに、ウェーバーのプロ倫で論じられるように事業的センスの自己言及性はさらに高まっていくことになると思う。このメタフレームが入ることで、明らかに経営者としての意識の質は、大きく変わる。西郷隆盛をはじめとした明治の志士たちに倫理的、精神的中心を与え、その後稲盛和夫の経営哲学の中心ともなった「天啓愛人」も、クリスチャニティからきた教え。つまり経営哲学とクリスチャニティは非常に深い関係性がある。

経営哲学としての倫理学は無論のこと、波動は聖霊論で一貫して語れるし、ニューエイジにおける自己投資概念ももともとはマラキ書などをベースとした教会への献金が宗教改革で献金先が社会的外部資本に変わったことが挙げられる。自己投資という概念が成り立つのも、そもそも自己=神という信仰があるからであって、汎神論化する前の創造主と被造物という聖書的な理解を深めていけば、その歴史的ルーツに明らかに聖書的倫理観が背景にあることがわかってくる。

ユングおよびユンギアン

日本のアカデミズムにおいて、ユングは非常に評価されているし、多くの人がユングの元型や集合的無意識の概念などを無批判に援用するが、実際のところはその本質は「学問」というよりも、形を変えた「信仰」であって、その実はほとんど「宗教」に近い。
シンクロニシティという概念も、ようは聖書的な世界においては「神の御業」と表現されていたことを、汎神論的な世界観から言い換えて、神を解体していき、その上で、マニ教のように様々な神話を統合し、「集合的無意識」という形でそこに新しい神(セルフ/自己)をおいた。これはグノーシス的信仰といわずしてなんというのだろうか。ユング心理学、およびその大衆化は、シンクレティズム化していく宗教的な運動であったという側面が大いにあると思う。
少なくとも、当初日本にユングを紹介したアカデミシャンの間にはそういった意識はなかったかもしれないが、少なくともユング心理学を援用して、ポップ心理学化している人々の間では、もはやユングは学問ではなく、宗教になってしまっている部分が大いにあると思う。キリスト教世界から見れば、大衆化したユング心理学こそ、学問ではもはやありえず、聖書的信仰に反する異端であり、異教的なものと言わざるを得ないと思う。そういった常識が日本にはないからこそ、ユング心理学は日本に大衆的な意味あいにおいても、大いに受け入れられたのだと思う。しかし、こうした崇拝は必ずカルト的な問題を生み出していくことになる。それゆえ「聖書学」を学ぶことは、今の時代とても大事なものとなる。

聖書学

そもそもキリスト教というから抵抗感が生まれるわけで、「聖書学」といえばいいし、実際プロテスタントの信仰の本質は、聖書学にこそある。この辺がうまいのは、実際にはほとんどマニ教やニューエイジ信仰、呪術的崇拝であるにも関わらず、「文化人類学」「ポストモダン」という言い方をしたことで、実際には単なる信仰であるにもかかわらず、その教義が広がったニューエイジ的信仰形態がある。しかもその本質が宗教であるにもかかわらず、マニ教的、ニューエイジ的信仰は、日本の大学教育の中にも紛れ込むことに成功した。
その意味でも日本宣教において、「聖書学」といったほうがむしろ抵抗感は少なくなると思う。
伝道師がやるべきことは、信仰の強要では全くなく、あくまで「思惟への奉仕」と「証」である。つまり「思惟への奉仕」と「証」とは「聖書学」以外の何物でもない。つまり「聖書学」で十分ではないかということになる。
仏教は前提として、教典を学ぶというフレームがあるので、「思惟への奉仕」と「証」がセットになるし、それを前提に受け入れられているものなので、抵抗がないわけだ。このあたりのプリフレイムやリフレーミングといったセルフプロデュースは、日本のキリスト教世界はもっと自覚的になっていくべきだと思う。

「聖霊のみ」の原則

クリスチャンの癒しのツールは「聖霊のみ」。色々な開運アイテムは必要がなく、「聖霊のみ」の原則が通底される。この原則から外れると必ず「偶像崇拝」にまつわる様々な問題が出てくる。

ファッション雑誌と御言葉

ファッション雑誌と御言葉。この関係性が、割と今後非常に重要な関係性になっていくと思う。占いにお株がとられてしまっている今の現状を、クリスチャンの勢力がしっかりと書き換えていくことが大事だなと思う。クリスチャン=クールという文脈をいかに作っていくか。文化的なプロデュース力や、センスは非常に大事。

貪欲な狼

占星術師の中には、ニューエイジ文化を裏で暗に批判しながらも、表ではニューエイジを金儲けの手段として使っている人たちがいる。これは聖書的な意味でも、本当に害悪であるし、貪欲な狼だなと思う。少なくとも、そうしたメタ認知できる知性を持っているならば、少なくともそこから離れて、潔くそうした活動は辞めるべきではないかと思う。本当の悪人とは、そういうタイプの人間だと思う。自らの手を汚すことなく、人々をサタンの道へといざなっていく。

そうしたサタンの勢力と霊的に戦っていくうえでも、聖書の御言葉をしっかりと伝えていきたいと思う。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

低く、低く、

日々イエス様の血と肉で造り替えられていく。低く、低く、召し出してくださった主に感謝と賛美を捧げます。アーメン。

地の塩であるクリスチャン

マンデラエフェクトを体験しているニューエイジャーに、主イエスキリストを証し、そして、クリスチャンの兄弟姉妹に、ニューエイジャーという罪人がいかに主イエスキリストの十字架によって赦されて、クリスチャンになったのかという証しする、そんな毎日。

世の塩であるクリスチャン。日本の塩分濃度はこれからぐんぐん上がっていくと思う。

日本のニューエイジャーのための聖書購解シリーズ

ロマ書はわりと誰にとっても意義深さを感じる最も重要なパウロ書簡のひとつであるのだが、個人的にはそれと同じくらいコリント書の教会形成論の深みが非常に好き。あれは本当に名著だよ。。。割と問題の多かったコリント教会だったからこそ、今でも通用する様々な神のソリューションが提示されているし、何より「信徒の群れに対する聖霊の宿り」と、「キリストの身体」という概念を分かりやすく提示している文脈が素晴らしい。初めて聖書を読む人に、パウロ書簡で何を読むべきかと聞かれたら、ロマ書と同時に、コリント書をまず一番に挙げたい。

・日本のニューエイジャーのためのロマ書講解
・日本のニューエイジャーのためのコリント書講解

みたいなテーマで、どこかの機会で、これまでの12年の経験をベースに、なぜ占い師からクリスチャンになったのかについて、熱く語りたい。

聖霊の注ぎという意味で言うと、やはり使徒行伝(使徒の働き)をニューエイジャーのために講解したい。

・日本のニューエイジャーのための使徒行伝(使徒の働き)

ペンテコステ神学などをしっかりと知れば、なぜ自己義認をベースとしたニューエイジでは、神学的に不十分なのかがよくわかる。ニューエイジにないものは、「信仰義認(完全他力信仰)」と「教会形成論」および「弁証学」。こうしたことを聖書神学からしっかりと学ぶことは、ヒーリングや異言や預言(チャネリング)を正しく理解するうえでも、これからの時代とても重要なものになると思う。

出会い

市村和夫先生のインターナショナルVIPクラブの交わりに参加させていただいた。主の召しでクリスチャンになってから、本当に新しい兄弟姉妹との出会いが加速していく。奥様もとても素敵な方だった。早稲田政治経済学部で同窓で先輩の、許仁成さんとも出会い、色々人生が加速している。主の大いなる御手を日々感じる。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

人脈という言葉は死語になったようだ

そういえばSNSが台頭してから「人脈」という言葉がすっかりと死語になったなぁ。あまりに自然に消えたワードなので、気づかなかった。僕が学生時代は「人脈」ブームだった。いまの若い世代なんかは、もう「人脈」といってもピンとこないんじゃ無いだろうか?

主に仕え、主に献身する。

主に仕え、主に献身する。ただただその思いだけで頑張っていきたい。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

六本木や麻布のクラブカルチャー

おそらくキリスト教の日本におけるリバイバルが起こってくる中心の一つが、六本木や麻布といったいわゆる「ワルい」人にとっての憧れの街、そして彼らが集まるクラブミュージックなんじゃなかろうかと思う。イエス様は、我こそは義人だと思っている人に対して宣教したのではない。誰の目から見ても、罪人だと思える人たちと積極的に食事をしたし、今でいうAV女優や風俗嬢のような売春婦とともに時間を過ごて、無償の愛を伝え続けて、十字架の上でその人たちのためにも自分の生命を捨てた。
本当に救われるべき人たちは、僕のように占いにはまって、ニューエイジャーになってしまった人だけでなく(わりとこういう人はインテリが多いので自分のことをうっかり義人だと思い込んでいることが多い)、ドラッグをやっている人、犯罪者、風俗嬢など、人生の中で神の栄光に触れることができなかった人たちこそ、本当に意味でイエス様の愛に触れるべきだと思う。これは僕自身がよっぽどそうした人たちよりも、ずっと悪人であることを自覚しているからだし(頭のいい人間の方がよっぽどずる賢いし、自分の手を汚さず、人を蹴落として生きていく)、イエス様が僕のような悪人を一番嫌うことをよくわかっているからこそ。だからこそ悔い改めてクリスチャンになった。一人でも、神の愛を知らずに、苦しんでいる人に、福音を知ってほしい。神の途方もない愛を知ってほしいと感じる。

毀誉褒貶のあるヒップホップミュージシャンのカニエウェストの「ジーザスウェスト」の世界観もまさにこういう世界観。いわゆる教会音楽のゴスペル(ゴッド・スペル/神の言葉)は、当時の被差別層であった黒人音楽がルーツであるし、ニューエイジにおけるある種の讃美歌の位置に占めているビートルズの「imagine」も、当時のロックはあくまで力を持たない人々のためのオルタナティブな音楽だった。当時の社会的な弱者のための叫びに似た音楽という意味では、やはりヒップホップを置いて他にないだろうと思う。こうした文脈から新しい文化の「クール」が生まれてくるし、かっこいいということはどこか常に「悪い」部分があって、そうした「悪」に染まっている罪人こそ、イエス様の十字架において救われていく。これは人類の歴史が証明している確かな事実だ。

カニエウェストのジーザスウォークの日本語訳はこちらから

https://w.atwiki.jp/gachmuch/pages/1015.html

創造主はいろいろな方をお立てになるので

僕だけが熱くなっているように思われて、僕の元で聖書を学び始めた人から「ちょっと杉本さんの熱量にはついていけないです!」といわれることが多いのだが、こうして僕以外の兄弟姉妹がいることが伝われば、安心できると思う。そもそもキリスト教世界の救いとは、神様からの恵みによるプレゼントであって、決して修行ではないです。そして、僕が熱いのは、最初からそういうタイプの人間なわけで、ゆるく信仰を守っていたり、熱さとはまた違うあったかーい方や、ユーモアにあふれた人などたくさんいます。
「会いに行く教会」の石川さんのように全国津々浦々どこでも呼ばれれば行きますよという熱いスタンスで、心はものすごく燃えていながらも、同時にイエス様を知らない人にこそ知ってほしいと肩の力を抜いて緩く広く知ってもらえるようにと活動なさっている面白い牧師さんもいるし、日曜日に僕が行っている恵み教会を牧されているジョセフケンさんの道端の知らない人にも気軽に声をかけちゃう「ユーモアとゆるさ」にはいつも救われるし、16年間土曜日の朝食会を続けていらっしゃる佐々木満男先生も、常に聖霊の炎に燃えて、国際弁護士をなさって多忙な中、70歳を超えて夜中や熱い日中にマンガミッションのポスティングをなさっているという逸話があるくらい(僕もその話を聞いて、ちょっと若者が行動しないわけが行かないぞ、ということで、1万冊のマンガミッションの配布を始めた)聖霊の熱に燃え上がっている先生もいる。
これが「信仰の正解!」というものはなくて、イエス様との関係性は常に個人的なものであるし、大事なことは、イエス様が私たちの罪のために死なれて、墓に葬られ、そして今も生きているという福音の三要素を信じることに集約されます。イエス様はそうやって兄弟姉妹の中に様々な人を立てられているわけなのです。人それぞれ賜物は違うからね。神様から与えられた賜物を兄弟姉妹や世の中のために、使っていくことで、おのずと自分の信仰の在り方は確立していくと思います。

クリスチャン同士のラポール形成の速さ

クリスチャン同士って、わずか数秒でラポールが築かれ、まさにその瞬間から、本当に「家族」になる。
天のお父様の子供たちであるから、兄弟姉妹ともいう。兄弟姉妹なので、たとえケンカになったとしても、また仲良くなれる。昔は犬猿の仲だったカソリックとプロテスタントも、今やエキュメニズム運動で仲直り。互いに小さい部分での教理の違いや、信仰的な立場は違えど、結局のところ兄弟姉妹であることに変わりはないというところに落ち着くのが、キリスト教世界の面白いところ。そういうことも、ちゃんとイエス様は聖霊を介して、パウロに語らせていて、教会内部でのいざこざは赦しあって解決しなさいとコリント書の中で詳しく書いている。ようは教会内部で起こりうる問題なども、すべてちゃんと事前に準備されているわけだ。創造主によって啓示された教えって、すごいよなぁと思う。

思いは形になる

思いは形になる。この原則で考えたときに、啓示された聖書の御言葉は着々と私たちクリスチャンの思いを通じて具現化していく。聖霊の注ぎはすべてのクリスチャンに約束された主の恵みの愛。こうしたダイナミズムを信仰告白してからより強く感じられるようになってきた。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

主イエスキリストの御旨のもとで

聖霊の働きというのは素晴らしく、クリスチャンになってから、社会のあらゆる立場、階層、あらゆる年齢層の人たちと関われるようになってきた。そして皆、全て唯一の神、主イエスキリストを信じている。階級社会化していく世において、クリスチャンは、神の前で高きものは低くされ、低きものは高くされる。クリスチャニティの祈りが果たしていく役割は非常に大切なものになっていくのをますます実感する。

音楽と神の言葉であるレーマ

主のご計画というのは素晴らしい。バッハやモーツァルト、ヴェルディなどの天才音楽家も聖霊に導かれて楽曲を書いているわけだが、当時の人は、まさにその天才的な旋律の中に神の栄光を見ていたのだと思う。もちろん今もそうだと思う。
特に音楽は、言葉よりも抽象度が高い(よりレーマに近いもの)であるため、神の栄光がよりダイレクトに心に響く。

福音とは罪人のための救いの教理である

福音というものは自分が苦しいところから召されて救われる経験をすると、同じように苦しんでいる人のために伝えたくなるものだし、またパウロのように頑なに否定していた人ほどむしろ熱心に証して、伝道するということもある。福音はそういう意味でも本質的に罪人のための救いの教理だよなぁとしみじみと思う。

ヴェルディのマクベス

来月ヴェルディのオペラ「マクベス」を見に行きます。ヴェルディの作品に特化したアーリドラーテ歌劇団による舞台で、聞くところによると、主催の山島達夫さんが、ヴェルディを愛するあまり、多くの方々にヴェルディを知ってほしい、ヴェルディをキーワードにした「コミュニティ」の再生という思いを胸に、毎年続けておられ、2日間満席でも、赤字になってしまうというくらい、ものすごい熱量で活動されているそうです。2日間とも演者が違うし、この熱量はなかなか他ではありえない舞台だと感じます。

義認と聖化

義認による救済の後の、聖化の初期(信仰の育み)の段階はわりと精神的にもグラグラ揺れる傾向がある。これは義認によって神の怒りから解放されたのちも、聖霊の内住によって聖霊から自らの罪を明らかにされ、聖化され造り替えられていくプロセスだから。でももちろん揺れるからといって、救われていないわけではないし、また救いが失われるということもない。むしろ救われたからこそ、造りかえられ、一時的に揺れるだけなのだ。

内的召命

外的な召命って、基本的に無効なので、迫害を受けやすい。結局のところ主が召す究極の方法は、内的召命。内的召命は100%主の御技なので伝道者ができることはといえば、内的な召命がいつかおこりますようにと祈りるほかない。そしてどれだけ拒絶され、迫害され、馬鹿にされようが、思惟への奉仕と証、なによりも他者への献身を行なっていくことが大事だなと、しみじみと感じる。

リバイバルもあくまで内的召命抜きに起こりえない。その意味でも占い師だった僕自身が、誰に宣教されたわけでもなく(つまり外的召命によってではなく)、自ずとクリスチャンになるように内的な召命を受けたという証は、やはり日本にリバイバルが起こりつつある徴と言えるのではないだろうか。

主こそ我が誉れ。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

赦しの力

しみじみ赦しというのは主の偉大な力だなと実感する。この世の論理、あらゆる側面から戦略的、合理的に検討しても、やはり赦したほうが解決は早いんだよね。その理由とはシンプルに、赦しは神の偉大な力だから。

汝の敵を愛すること

赦しと十字架の恵みって深いなぁ。しみじみと。昨日はとあるシーンで、初対面の方にだいぶ嫌なことをされて、あまりに酷かったので今日改めて警察にちゃんと相談して正式に被害届を出したほうがいいのかなぁ…と思ったのだけど…、まぁ、人間なんて僕も含め、皆、愚かなもの。人生で起こりうる罪に対してもすべてが潔白な人なんていないし、そもそもみんな罪人なわけで、罪人が罪人に腹を立てたって仕方がないし…、罪人が罪人を裁けるわけでもない。そもそも人を裁くほど、そんな権限なんて自分にもない。一切ない。
そんな時、イエス様は、僕をどんなクリスチャンに対しても、頭の上がらない罪人として、低く、低く、召し出してくださって本当にありがたいなぁという思いに駆られる。最初はキリスト教徒を迫害していた、使徒パウロもそうだったんだろうな…。「お前が言うなよ」だからな。本当に。
ただただ罪人として、悔い改めて、生きるしかないなぁ…と、一日経ってしみじみ思う。いやー、その方も、イエス様の福音を知ってもらえたら、きっと人生楽になるんだろうけどな…。
自らの怒りを鎮めて、主の裁きに委ねることもできるが…、願わくはその方が福音を知って、イエス様によって人間が持つ原罪から解放されて、いつか兄弟姉妹になれたらいいな。「汝の敵を愛せよ」といった、イエス様の愛を知ってほしいな。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

罪深いなぁ…(自戒を込めて)

そもそも知恵の実をそそのかせて食べさせた蛇(サタン)がそうであったように、どちらかっていうと、頭のいい人のほうが、わりと罪深いんだよね。その頭のよさゆえに、自分がいかに罪を犯していないか自己弁護するし、敵を作らずに、うまいことを人をくみしていって、自分の手を汚さず、自分の意見をさも正しいかのように通していったりもする。むしろ札付きのワルのほうが、素直で真っすぐで義理堅ったりするものだ。人は見かけによらないというか、意外と悪魔って真摯で、狡猾で、巧妙なんだと思う。だから自分も、「立派なニューエイジャー」だったんだろうなと思う。神様から見れば、人間なんてどんぐりの背比べで、どっちも臭い。神の嗅覚からすれば、人間なんて、どんな偉い人でも、罪の匂いで充満しているものだ。
先生、先生といわれて、天狗になっているうちは、あるいは自分が天狗になっていないことに天狗になっているうちは、悪魔の策略の中にいることは気づかないもんだね。しみじみと聖書の御言葉で人間の罪深い心は砕かれるべきものだなと思う。自戒を込めて。主イエスキリストの御名において、お祈りいたします。アーメン。

罪人は常に、主に低く召される。

低く低く召してくださったことはしみじみありがたいことだなと感じる。クリスチャンとして何も誇るところはないし、しみじみ主の愛の深さを日々実感する。これが自分で手に入れた知恵や勲(いさお)なら傲慢にもなるだろうが…しみじみニューエイジャー や占い師だったことは罪人でしかないからね。ありがたいなと実感する。

人は罪を犯すが、信仰によって救われる。

十字架を信じ、また十字架を背負うという方法以外に、人間関係のいざこざや、様々な問題を根本的に解決する方法はないなとしみじみと感じる。やっぱ赦しって大事なんだよな、としみじみと感じる。僕は取るに足りない罪人でしかないが、こうして主の恵みによって召されて生きていることに心から深く感謝するし、日々知らず知らずのうちに積み重ねていってしまう愚かさや罪深さを、しっかりと悔い改めながら、主イエスキリストの愛をもとに生きていきたいなとしみじみと感じる。
やっぱ35年も生きていると、大体十戒にかかれている、世の中で知らず知らずのうちにやってしまう罪なんて、ほとんど全部やっているわけで(離婚だって立派な姦淫の罪なわけで)、それにさらに自分の場合は占いやニューエイジ(いわゆるスピリチャル)を信奉するだけでなく、推進さえしていた。本当に愚かだなと思うし、ただただ主の前で、恥じ入り悔い改める日々。

しみじみとあらゆる罪を犯してきているな…と感じる。大体誰から見ても、札付きの悪よりも、よっぽど頭がいい、一見品行方正、優等生タイプな人間の方が…、気づかず悪いことをしているものだ。自分もそうなんだろうと思う。聖書を読んでいると、イエス様の御前で、しみじみと恥じ入るね…。
罪を犯さないで生きるなんて、まぁ、無理だよなと。その上でいかに悔い改めるかが大事だなと。こんなとるにたらない罪だらけの自分のために、イエス様が十字架の上で屠られて、贖ってくださったなんて…、やっぱり恵みだなと実感するし、自分もそうありたいな…できるかな?できないかな?いや、なんとかやってみよう!と、今日も教会に行って、しみじみと思う。信仰って、そういう積み重ねなんだなと。まるで、「杉本さん、日進月歩でじっくりとだね」とイエス様がいってくださっているよう。

父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

ミニストリー

ミニストリーって、神の純粋な愛に触れるから、1週間の運気あがるんだよね。 聖霊の注ぎによって、人生のテーマが加速する。

多すぎる情報は人を迷子にする

SNSによって情報過多になってから、多すぎる情報はむしろ人を迷子にさせてしまう。これがVRやAI、5Gの時代になるとますますこれが加速していく。新しい時代において大事なことは、「信」を共有していくこと。それゆえ、聖書の御言葉の重要性は今後非常に高まっていくと思う。

信を共有する時代

やはり情報やスキルや経験をシェアする時代から、信を共有する時代に移っていくね。これは背景としては確実にVR、AI、5Gといった技術が関係している。もはや情報やスキルや経験は全てオンラインにアップロードできる時代になってきた。つまり情報やスキルや経験における、情報の非対称性はこれからの時代大いに無くなっていく。それに取って代わって、信を育み、共有するミニストリーが今後の時代を開く鍵になると思う。
言葉(facebook)→映像(Instagram)→体験(VR技術に基づくSNS/AIの自動同時通訳による言葉の壁の消失)という形で今後人類のシェアリングテクノロジーは進展していくと思う。言語の壁を超えて、なおかつ体験をそのまま記録できるようになっていくと、もはや情報の非対称性よりも、信をいかに共有するかのほうが社会的な価値を生み出すものになっていく。むしろ知に重きをおけば置くほど、技術の発展に伴いさらにエコーチェンバー化は進むので、知の共有というパラダイムは自ずと自己崩壊していくことになると思う。

あとそもそも情報やスキルや経験をシェアできて、それを社会的な価値へと転換できる人はそもそも限られている。つまり必ずエリート主義に陥ってしまう。信を共有し、育むミニストリーは、聖書の御言葉をベースに形成されていくので、こうしたエリート主義に陥ることはない。

自己義認の罠

汎神論的な世界ではどこまで抽象度を高めても「自分を愛する」という枠組みを超えることはない。なぜなら神とは自分と他者、世界という境界線をとった最大のもの(ワンネス)であると考え、その中には自分自身も含めるから。またそうして広げてワンネスに行き着いた先には、最終的には仏教の悟りや空/無のように、無神論に帰結するし、決して創造主という真実に行き着くことはない。ここが「自己義認」の罠になっている。現在の汎神論の最も普及した信仰形態となっているニューエイジ (スピリチュアル)的な思想の危険性はここに集約されると行って過言ではない。大事なことは、創造主と被造物の自分という関係性を明確にすること。そして、創造主は常に私たちを愛しており、原罪によって死を体験することになった私たちを、自らの御子を十字架の上で屠って、その罪を贖ってくださったという真実を知ることが何よりも大切。これはどれだけ汎神論的な世界の延長線上で考えても、辿り着くことのない真実。ゆえに一神教は啓示宗教であり、決して人間が考え出した宗教形態ではないということ。これは何度繰り返しても、繰り返し過ぎることはない重要なポイントである。自己義認では永遠に私たちは救われない。大事なことは、自らの罪を悔い改めて、十字架の意味をしっかりと受け止めること。

セッションからミニストリーへ

知を共有するセッションから、信を共有するミニストリーへ変化していく時代がまさに今なのだと思う。僕が占い師を始めたときには、個人セッションという言葉は、ほぼ誰にも使われていなかった。大体の場合、「個人鑑定」と呼んだ。今の時代は、多くの人が当たり前のように「セッション」という言葉を使うようになった。そして、今やセッションという言葉は耐久年数を超えはじめて、ほとんど意味のない言葉、場合によっては単なる悪質な霊感商法や開運商法になりつつある。あるいは、単なる参入障壁の低いお気軽にできる副業や、金儲けのための商材(いわゆる情報弱者ビジネス)に成り下がってしまった。また、SNSの発展によって、セッションをしなくても、すでにその人にとって必要な知識はだいたい手に入れられる時代になった。つまり情報にはほとんど意味がなくなった。
今後セッションという言葉は、鑑定同様、古い言葉になっていくと思う。セッションに代わる言葉は、「ミニストリー」だ。まずその前提として、ニューエイジ文化から、クリスチャニティ文化への大きな民族大移動が起こるだろうと思う。すでにニューエイジ文化自体が、商業主義に染まって腐敗してきている今、誰の目から見て明らかに「悪」に染まりつつある―つまり単なる金儲け主義に陥っているということを実感するようになってきている。正しいことを成そうとするならば、必ず正しい思想的なベースをもとに行動しなければならない。成る実を見て、その木を知りなさいということがイエス様の御言葉。大事なことは「知識」ではなく、どのように「信仰」を育むべきだということ。知識を教えてくれる人は無数にあるが、聖書に基づく正しい信仰のあり方を教えてくれる人はほとんどいない。これからの時代はここが非常に重要な価値となると思う。
知では決して人は救われない。信を共有してこそ、これからの時代の本当の救いは得られるようになる。日々そのことを確信する。
「「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」」
ルカによる福音書 6:43-45 新共同訳

マンデラエフェクトという徴と、日本的な信仰形態のパラダイムシフト

日本人は非常に信仰深いので、一度明確な徴が個人的に示されると、一気にそちらに移動することはそこまで難しいことではない。ニューエイジがここまでひろがったのも、要は個人的な徴(神秘体験)がそこにあったからだ。そこで大事なことは、一神教の枠組みの中でしか証明できない徴があった時こそ、日本人の宗教観の大きなパラダイムシフトになりうるということ。創造主が現実をクリエイトしている、自分はあくまで被造物でしかないというインパクトを、マンデラエフェクトは与えてくれる。圧倒的な主の臨在をまさにそこに感じることになるのだ。しかもこれが全て聖書の中にしっかりと預言されているということ、しかも、自分が確かにイエス様の十字架での死と3日後の復活を疑わず、信じていたという事実にも、ぶち当たることになる。そういう徴を、主は分かりやすく啓示してくださっているのだと思う。

汎神論の限界

汎神論でいうところの、もし自分の意識が現実をクリエイトすることが真実ならば、それでは、なぜ目の前で奇跡を起こせないのか?という話になる。汎神論の限界はここに在る。汎神論からはどうやっても一神教の枠組みは生まれない。マンデラエフェクトは本人の意思とは関係なく生成される。これはあくまで創造の主体が、汎神論で考えるところの自分自身ではないということを示している。あくまで私たちは神が創造した時間という被造物の中を、神の御手によって、移動させられているにしかすぎない。ここに決定的な、創造主―被造物の絶対的な関係性が、示されているわけだ。確かにこうした現象を経験しない限り、パラダイムシフトということは起きえない。日本では今だ、こうした徴をともなうパラダイムシフトは、日本のキリスト教世界の中では大規模に起きたことがない。しかし、今がまさにその時なのではないかと思う。マンデラエフェクトは、日本人を、一神教的な意識へとパラダイムシフトさせるだけの大きな力があり、主の御手によって力強くキリスト教信仰へと導くものになっていくだろうと思う。アウグスティヌスも唱えた、時間は被造物であるという真実も、おそらくこの経験に依っているのだと思う。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

マンデラエフェクトと聖書的信仰の深い関係性について

やはりどう考えても、マンデラエフェクトと、聖書とは深く関係している。マンデラエフェクトを認識できる人は、日本的なノンクリスチャンであっても、十字架の贖いを知っている&信じている人が多いし、日本人にも分かる汎神論的な世界の枠組みの中で、創造主が、聖書の世界に召してくださっているとしか思えない。確かに日本人の信仰である汎神論的な世界から、ヘブル的な一神教へのシフトは途方もない溝があって、ここを埋めるには、徴を通じた、パラダイムシフトが必要なんだと思う。牧師の先生に、「なんのためにこれが起きているのだろう、その主の意図は何だろう?」と聞かれたのだが、おそらく日本人の汎神論的な世界から、キリスト教の一神教的信仰形態へのジャンプのために、必要な徴だったのではないかと、研究すればするほど強く実感する。すくなくとも、日本の場合は、教会に通うクリスチャンではなくても、かなりの割合で、ミッション系の教育を受けた人だったり、何かしらの縁で聖書の世界を知ることがあったなどで、実際にはイエス様の十字架の死と3日後の復活を知って、懐疑的にならず、信じている人はかなりの数存在する。日本人の場合そもそも、汎神論なので、3日後の復活を「疑う」ということも、あまりない。「信じ」てさえいれば、救われる。それが信仰義認の本質だ。そこはすんなりと受け入れられるのが日本人的な冷静だともいえる。まずは、そういう方々をこのマンデラエフェクトという徴を通じて、主は信仰へと召されているのではないかと感じざるを得ない。

日本のキリスト教世界の発展のために

キリスト教世界の発展のために(たくさん献金できるように)、しっかりと今後の事業でさらに成功して、主の栄光を讃えていきたいと思う。マラキ書のように、神の庫を満たせるように、頑張るぞ。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

 結局教会に献金しないと、そもそも福音が広がりようがないからね。やっぱ大義のためにしっかりと大義に基づいて、世の中にいいサービスを生み出していくことは大事。プロテスタンティズムの基本だね。

クリスチャンとしてのホームベースが整う

土曜日の午前と、日曜日の午前は、これから毎週教会になった。土曜日はグランドハイアットでの超教派的なエクレシア。日曜日は大泉学園でのジョセフケンさんの恵み教会。着々と生活のベースが、新しいものに変わっていっている。

参加したい人は気軽に声をかけてください。イエス様が好きだけど、所属教会がないということで、困っている人って多いし、一言でいうと…めちゃくちゃ熱いです。
エクレシアの集いは、聖霊の注ぎがあるので、人生が大きく作り替えられて、本当に日々が楽しく、熱いものへと生まれ変わること請け合いです。
聖書を学びたいという人も、僕がマンツーマンで基礎から分かりやすく教えます。聖書を一人で学ぶのは至難の業だし、ガイダンスはあったほうがいいでしょう。

僕の場合は、心理学やコーチングをベースにした教え方であり、なおかつキリスト教神学の中でも、聖霊の働きを重視し、聖書的なスピリチャリティとは何か?という基礎をしっかりと押さえつつ学べます。マンツーマンで自分のペースで学べ、主への信仰がゆるぎないものになっていきますから、結果的に人生の中での自信と安心が人生にしっかりと備わっていきます。
そして何より、中小企業向けの経営コンサルタントとしての長年の経験や、長い人ではもうかれこれ6-7年にわたって継続的に受けられてきたライフコーチとして教えてきた経験があるので、どのように人生の中で聖書を活かし、物心両面で、豊かな生活を送ることができるかということについて、地に足をつけたレクチャーとなります。
たぶん組織に属さず、プロフェッショナルな心理学的な知識や、地に足の着いた経営的な知識をベースにして、マンツーマンで聖書が学べる場所は他にはないのではないかなと思います。

あとは、普通にクリスチャン向けのビジネス支援や、マネーリテラシーの普及などもしていきたい。クリスチャンの間でわりとよく話題にのぼることが、クリスチャンってとにかくお金に疎い人が多いということ。
でもこれってわりとあまり根拠のない話であって、単純にビジネスを学ぶ機会が少ない、もしくは最初からお金への苦手意識から、学ぶことを放棄しているからだけなんじゃないかろうかと思う。
むしろ、本来、資本主義って、社会学者のマックスウェーバーがいうように、クリスチャニティ(プロテスタントのカルヴィニズム)から生まれたもの。
本来、明治時代のクリスチャンは、華族や士族をはじめとした上流階級に所属していることが多かったし、決してクリスチャン=お金のリテラシーがないというのは、現代的な先入観にしかすぎないと思う。明治維新の志士たちにも、クリスチャンは多かった。
ようは現代においても、単純にお金の勉強をすればいいだけのことだし、クリスチャニティと資本主義の関係性を社会学的にもしっかりと理解しながら、聖書的な価値観にのっとった現代的な投資の概念(主に現代は知的財産に財が集中する時代)をしっかりと学ぶことが大事なんではないだろうかと思う。
聖書的な価値観と、経済的な繁栄とは、決して矛盾する価値観ではない。むしろ聖書的な知識こそ、現代においても大きく経済的にも栄えるための基本的な教養ではないかと、長年の経営コンサルタントとしての経験から感じる。聖書の教えだけで栄えるわけではない(現代的なマネーリテラシーは絶対に必要だし、幅広い知識や経験が必要なことはいうまでもない)が、逆にいえば、聖書教え抜きに恒常的に栄えることは絶対にありえない(イエス様の十字架の贖いを知らないで、なぜ社会に大きな価値を生み出すサービスを設計することができるのだろうか?)。そもそも商売が上手なユダヤ人だって、旧約聖書を読んで、ビジネスのセンスを磨いているわけだしね。聖書なしに、契約概念は生まれなかったし、契約概念に基づいた今の経済システムは絶対に生まれなかったわけで。特に金本位制の崩壊以降、情報の非対称性こそ、経済的な価値のベースとなった時代となっている今、聖書的な知識抜きに、経済的な豊かさを手に入れていこうとすること自体、ナンセンスなんじゃないだろうかと思う。

なぜクリスチャンとしての信仰告白をするのか ―無償の愛について

和を以て貴しとなすという文化の日本において、信仰告白をすることはリスクでしかないし、「なぜ、それでもクリスチャンであることを選ぶのか?」という問いに関して、明確な答えとしては「無償の愛」がここにあるから。「結局、罪なき自分が、相手の罪を背負って、贖う」つまり「見返りを求めずに、他者のために生きる」というイエス様が示された無償の愛の「型」を、人にも分かりやすく伝えるには、主イエスキリストの信仰告白をした上で、行いを通じて証していくしかない。信仰告白抜きに、行いに進んだところで、「いい人」でおわってしまうし、場合によっては「ただの都合のよい人」になってしまう。クリスチャンにとっての無償の愛とは、まず何よりも主を讃えることに大きな目的があり、その大目的のために自らを十字架にかけるということがベースにあるということを理解してもらうためにも、信仰告白は避けては通れない道であるといえる。

クリスチャンになってよかったのは、何よりもこの「無償の愛」というテーマについて、より深く、輪郭を持って臨めるようになったこと。しかもクリスチャンとしての信仰を持つ人は、すべからくイエス様が十字架の上で示された「無償の愛」という型を信念として持っているので、打ち解けるのも早いし、またともに行動する時にも非常に合意形成が早い。こうしたことは本当に主イエスキリストの恵みだなと深く感じる。