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主イエスキリストを頭とする一つの身体として

超教派の集会に出てしみじみと思ったのは、細かい信条が異なっていても、なんだかんだ結局のところ第1コリント12章にある通り、イエスキリストを頭とする一つの身体なんだなぁと。教派によってメインとしている働きが違う。カルヴァン派はその歴史から見ても、まずもって当時腐敗していたカソリック教会を正す意味でも聖書が語る教義に忠実にあった。ルターが腐敗を正し、その後カルヴァンが組織神学として細かくまとめていった。今でもそのDNAはやはり健在していて、日本のキリスト教世界の出版の中で最大手のいのちのことば社や新改訳聖書は、日本福音同盟を母体として生まれたが、日本の福音派の神学的レベルを強力に引き上げてきた存在。
その一方で、カルヴァンの予定説と、神学的にはある種対極に存在するのが、アルミニウス主義をとるウェスレーを祖として発達してきた聖霊派の一群(ホーリネスやペンテコステ派など)。そもそもリバイバルという運動自体が、この聖霊の存在に抜きに語れないように(ちなみに自分のクリスチャンとしての信条はこのアルミニウス主義の文脈に即している)、福音宣教というものをまずもって一番に非常に大事にする。
一見両極に見えるようなこうした一つの身体の中の働きも、第一コリント14章で出てくる有名な御言葉「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」で、しっかりと聖書の中ではアウフヘーベンされている。
超教派の集会の中にも今でも存在しているこうしたダイナミズムも、本当に素晴らしいイエス様の恵みだなと深く感じる。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。 あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」
コリントの信徒への手紙一 12:12-31 新共同訳