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処刑道具としての十字架が持つ実相

十字架とは、イエスキリストが贖罪を行うまでは、いうなれば最も残酷な処刑道具であって、ギロチンのようなもの。罪とそれによる死を象徴する。この実相も忘れてはいけないと思う。本来ギロチンがいわば宗教的、霊的な文脈を持たないただの処刑道具であるように、イエスキリストによる贖罪以前は、十字架そのものは霊的な実相を持っていない、裁きと罰としての死を意味したわけだ。これがアダムの堕落によってもたらされた原罪そのものである。
なぜクリスチャンは十字架を重んじるのか。それは私たちは一人として罪を犯さない人はおらず、主の目から見れば全ての人はアダムの堕落以降、どんなに熱心な律法主義の中にいたパリサイ人ですら、一人として罪人でない人はいないということを自覚するため。それ故に全ての人がその罪故に、最後は十字架(ギロチン)にかけられて死ぬ。しかし私たち一人一人の罪を贖って、十字架を単なる処刑道具から、復活の奇跡という実相に移されたのが、神の子羊イエスキリストになる。今の時代はこうした実相があまり認識されないまま、当たり前に恵みとして十字架を見ているが、これが罪と罰を示す処刑道具だったという実相は決して忘れてはいけない。それゆえ、私たちは自分の罪深さを深く悔い改め、日々主イエスキリストの身体において、まるで細胞が新陳代謝するように、聖化され、栄光の身体として、主イエスキリストに近づいていくことができるのだ。