日本特有のポストモダニム

汎神論的世界観を離れて、一神教的な世界を受け入れると、デカルト、ベーコン、パスカルなどの近代合理主義の骨格がどのようにキリスト教世界から生まれてきたかが見えてくる。日本の近代化は外発的なものだったが、内発的な近代化は、そのベースにある汎神論から一神教への世界観のメタ認知とシフトが欠かせないと深く実感する。神を否定して科学や合理的思弁が生まれたのではなく、神を信仰するゆえに、無知蒙昧を廃して、科学や合理的思考が生まれてきたという内発的な近代化のリアリティを知ることは非常に大切だ。汎神論的な世界からは決して科学的思考は生まれてこないし、あくまでそれは外発的なものにすぎない。汎神論的な世界をベースにして、科学のふりをした疑似科学をオカルトという。こういう視点からオカルトというのは科学とキリスト教の両面から批判される。特にキリスト教世界から否定されるオカルト性については、日本の汎神論的文脈からはピンとこないが、まずは聖書を読んで、そこからベーコンやデカルト、パスカル、カントなどの著作を読んで、理性とは何かということをしっかりと踏まえなければ、決して科学とも合理主義とも呼べないオカルト的な無知蒙昧に陥ってしまう。これがポストモダンでもなんでもなく、単なるプレモダンでしかないということ。ポストモダンのふりをした、単なるプレモダニストによるモダン批判、ポストモダン礼讃は、無知や不勉強でしかない。つまりポストモダンを語るならば、聖書はちゃんと読んだ方がいいし、キリスト教神学はしっかり学ぶべきだと思う。聖書のパウロ書簡は無論のこと、アウグスティヌス 、トマスアクィナス、ルター、カルヴァンなどは最低限抑えるべきだ。その上でシュライエルマッハーやカールバルト などを読むべきだ。
プラトンやアリストテレス、ベーコン、デカルト、パスカル、カントだけを読んでその延長で西洋文明をわかったつもりになって、ニーチェ、ハイデッガー、フーコーや、ドゥルーズ、デリダ、フロイト、ユングなどのポストモダン/ポストコロニアル的視点から近代合理主義に対する批判を加え、ポストモダン的な視点に立ったつもりになるのは、単なる無知蒙昧としか言えない。日本のアカデミズムには、そもそもアカデミズムのベースとなる近代合理主義の土壌となったキリスト教神学が決定的に抜けていることを、自覚しなければいけないと思う。隣人たちが持つ一神教的な世界への理解抜きに、汎神論優位主義に立って物事を考えるのは島国根性以外の何者でも無い。
日本人が総じて占いや迷信が好きというのは、近代化が内発的なものではなく、外発的なものであったということ。そして同時に、それはポストモダン/ポストコロニアル的な視点から礼賛されるべきことなのではなく、単純な無知ゆえの恥ずべき反知性主義でしかないということ。日本に民主主義がなかなか根付かないのも、結局のところこういう外発的な近代化という側面が大いに関係していると思う。そうした意味でも日本におけるリバイバルを通じて、真の意味で日本人の思惟の段階を、内発的近代化というこれまで何百年間も見落としていた落し物を私たちは拾うことになると思う。
わりと自分が受けた大学教育が、ポストモダン/ポストコロニアル的な文化人類学等の文脈を持った教授陣だったので、キリスト教神学を学べば学ぶほど、井の中の蛙大海を知らずという状態だったんだなとしみじみと感じる。ポストモダン/ポストコロニアル的な教育を受けていなければ、占い師になろうなんて思わなかったし、ニューエイジャーの騎手になることもなかったと思う。教育ってものすごく大事だなと思う。海外留学をしていれば、こうしたことは防げただろうなとしみじみと思う。知性だけでなく、信仰を持つことがいかに大事か、それが相互に深く関係しているということを、大学を卒業して12年経って深く実感する。知性と信仰は相反するものではなく、むしろ相互に深く共立する関係にあるのだと思う。

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