日本における里山自然崇拝

日本人が普遍的に持っている信仰って、戦前の国家神道の延長にあって天皇陛下が人間宣言をした後の神道や、檀家制度によって形骸化した仏教(いわゆる葬式仏教)でもなく、おそらくトトロや平成たぬき合戦ぽんぽこのように、ジブリの世界の中でしばしば描かれるような「里山自然崇拝」なのだろうと思う。
つまり信仰告白という焦点でシンプルに言えば、日本人の信仰告白とは「里山自然崇拝」で、それにともなう弁証学は主に「エコロジー論」がベースになると思う。確かにエコロジー論を弁証学に強力に組み込めるのは世界中を見渡しても日本的な里山自然崇拝において他にないだろう。そしてそれは世界に誇る弁証学になる。
つまり日本的な信仰を守るための弁証学自体にそもそもあまり神道的な枠組みや仏教的な枠組みを変に入れるよりも、むしろ里山自然崇拝からのエコロジー論から入った方が実際の日本人の信仰のリアリティに近いものが言及できるのだと思う。
TPP脅威論や、種子法廃止に関する議論、食の安全性の問題などは、ある意味日本的な里山自然崇拝からくる日本的信仰を守るための、弁証学的な当然の帰結と言えるのかもしれない。
逆にいうともしキリスト教的な弁証学の接点でいうと、変に神道や仏教という側面から接近していくよりも、むしろ内村鑑三のように里山自然崇拝から入っていったほうが、むしろ思惟への奉仕はより噛み合うようになるんだと思う。その意味で内村鑑三の無教会主義や、天然こそが教会であるという思弁は、確かに非常に理にかなったものであると言える。そもそも日本のキリスト教世界は、日本が仏教や神道の国だと思っている段階で、どこか間違えた認識をしているのかもしれない。正確には、ジブリ的な世界に対する思惟への奉仕をキリスト教世界から考えていくべきなのかも?確かにその仕事をしたのは、内村鑑三だからね。
そしてキリスト教的世界観と、里山自然崇拝との接点は、創世記における天地創造の物語や、エデンの園における天と地と人の調和というテーマになると思う。人類が無垢でまだ罪を犯さず、神および自然と調和していた時代の話。
確かにこれはフランシスコザビエルは気づかないわ。日本の信仰を神道や仏教という窓口から入っても、信仰の実態は見えない。外側の視点からは一向に見えないテーマ。だからこそ内村鑑三は、天然という概念を日本のキリスト教普及において重要視したわけか。
確かに「里山自然崇拝」といったほうが日本人の信仰形態としての一貫性が出てくるし、信仰告白の内容としては最もふさわしいかもしれない。

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