日本人が宗教嫌いな理由 ―「信仰告白」と「弁証学」について

日本人が宗教嫌いな理由に、オウム真理教事件に代表されるカルト問題や、宗教特有の組織的な問題(人間関係の問題や、力によるコントロールなど)を上げられることが多い。しかし、本質的によく考えてみたら、「信仰告白」と「弁証学」という文化がないからなんだわ。

「信仰告白」とは、「自分がどんな神を信じているかを表明すること」であり、「弁証学」とは、「なぜ自分がその神を信じているか、逆に他の神をなぜ信じないのか」を弁証することを意味する。

そもそも日本的な汎神論、多神教的な信仰文化において、「信仰告白」をしたところで、同じ日本人でも信じている神様はバラバラだし、そもそも自分一人の信仰においても信じている神は常に移ろう。それこそ仏教だったり、神道だったり、時にキリスト教だったり、自然崇拝だったり、ニューエイジだったり、あるいは占いだったり、宗教をメタ認知してアカデミックにとらえる文化人類学的な視点だったり、時に一切の神を否定する共産主義的思弁だったりと、定まることは無い。たとえ移ろう信仰の対象を、告白をしたところで、そもそも信仰のあり方がケースバイケースの御都合主義でひとつの信条に定まっていないので外部からの批判の対象になりえない。それゆえ、弁証学的な思弁を持つ必要もない。そして、そもそも信仰告白をする理由も必要もないので、たとえ、どんな信仰を持っていても他者から批判されるなんてことも一切ない。
むろんキリスト教世界が、その長い歴史の中において自らの信仰形態について自問自答し、その中で生まれてきた自己批判からフランス革命のような市民革命、ニューエイジ文化における反戦運動や、ポストモダン/ポストコロニアル思想を生み出していったような、自己批判するダイナミズムも、日本的な信仰文化においては存在しえない。 ある意味こうした信仰文化である以上、どう考えても、日本においては「私の宗教」を持たない方が、日本に住む上で圧倒的に安全圏内の中でいられるわけだ。

それゆえ、もし自分がある特定の「宗教」を信じるとなると、話が一転する。その瞬間から、それ以外の神を信じることが形式上禁忌となるわけで、その時点から「信仰告白」をしなければならなくなる。そして、「信仰告白」をすれば同時に、なぜ自分がその神を信じるようになったかについて、外部からの批判にさらされ始めるので、「弁証学的な思弁」を身に付けなければならなくなる。

実際にその神によって個人的に救われたというとても強い体験的な理由がなければ、わざわざこうした「信仰告白」や「弁証学的な思弁」を身に付けることは、わずらわしいことであるし、そもそも「信仰告白」をした時点で批判にさらされ始め、人間関係におけるリスクでしかあえり得ないので、わざわざそんなめんどくさいことをしたくないというのが、大きな理由になるのだと思う。

日本が近代化の中で、明治時代に国家神道を制定したのも、ある意味諸外国の一神教的な信仰から、鎖国以外の方法で自らの国体を守るために、「信仰告白」と「弁証学」のフォーマットを作らなければならなかった。それゆえ、仏教を廃し(廃仏毀釈)、「私は天皇陛下を信じます」という「信仰告白」のフォーマットを制定し、その上で、いかに天皇陛下が素晴らしい存在であり、そのほかの宗教よりも優れているのか(国家神道の場合は、万世一系で、世界の中で最も古い歴史を持つという神学的背景を強調する)という分かりやすい信仰形態を、当時の政府が準備し、教育に組み込んだ(教育勅語)ということ。

戦後、天皇陛下の人間宣言によって、あくまで象徴に過ぎず、すべての国民を統合する「信仰告白」の対象ではありえなくなり、また戦前の「弁証学」そのものが、日本を狂った方向へ暴走させた詭弁ということになり、国家神道そのものはGHQによって解体された。

それゆえ、戦後は「信仰告白」と「弁証学」の両方を持ちえない独特な宗教環境の中で、人々が共通して信じうるものが「経済的な繁栄」というところに落ち着くことになった。しかしこの経済的な繁栄という神話が終わろうとしている今、あらためて、自らの信仰をどこに置くべきか、各々が思い思いに自分なりの答えを探していて、それが日本特有のスピリチャリズムやニューエイジ文化に繋がっているのだと思う。

そして、逆に「信仰告白」と「弁証学」を伴わない、汎神論優位主義の主張は、その構造上どうしても稚拙な「キリスト教は、戦争の宗教であり危険な宗教だ」といった、「鬼畜米英」といっていた時代と大して変わらない偏った先入観に陥ってしまう。

日本がSNSや、今後AIによる翻訳技術の発達などで、言語の壁を超えていったときに、まずでてくる信仰上の問題は、こうした「汎神論優位主義」という「井の中の蛙大海を知らず」という問題だ。このことについてしっかりと向き合っていくことはとても大事だし、いずれにせよ自らの「信仰告白」や「弁証学」抜きに、「日本特有の多神教優位論」や、「日本的な信仰形態に近いインディアンやアイヌの文化を持ち出して、汎神論的な自然崇拝こそ素晴らしいと誇るような、よくある文化的色眼鏡」は、異文化を理解するための国際的な感覚に欠け、決して平和的な思想からは程遠いのではないだろうかと思う。

海外に留学して、宗教的な議論を交わして、日本がいかに素晴らしい国かをよく知って、進んで神道や仏教を調べて、自らの信仰を明確にする人が実際に多いように、やはり自身の信仰をメタ認知することはこれからの時代はますます大事なものになるのではないかと思う。

まぁ、そもそもこうした個人の「信仰告白」やそれに伴う「弁証学」といったことを、個人個人が発信できるような時代になったということで、おそらくこれ自体は世界中で起きてくることだし、特に、世界の中でわりとガラパゴス的に隔離されてきた日本でも、SNSの台頭や、今後のAIによる言語の壁の崩壊によって、こうした流れは今後増えていくのではなかろうかと思う。

と当時に、ある意味日本人がその長い文化の中でずっと避けてきた「信仰告白」や「弁証学」から目を背けるひとつの弱さに向き合わなければならない時代が近づいてきているといえるのではないだろうか。

シンプルにいうと「信仰告白」ってめんどくさいっていうことなんだなと思う。「信仰告白」してしまうと、わざわざ人に説明するためのコミュニケーションコストが増大する上に、そもそも日本においてそれをする必要もメリットもないということ。民族、言語、宗教が同じ国土内で一致している稀有な国だからね。同じアジアでもシンガポールのように、多種多様な人種や宗教がある環境とはやはり大きく違うんだよね。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/単一民族国家
それが今後SNSとAIの進化による言語の壁の崩壊で、バーチャル空間はどんどんシンガポール化していくからね。ここが今後の日本の信仰の危機とも深く関係していくと思う。すでにそれは日本のニューエイジ 化で現れ始めている。

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