セッションからミニストリーへ

知を共有するセッションから、信を共有するミニストリーへ変化していく時代がまさに今なのだと思う。僕が占い師を始めたときには、個人セッションという言葉は、ほぼ誰にも使われていなかった。大体の場合、「個人鑑定」と呼んだ。今の時代は、多くの人が当たり前のように「セッション」という言葉を使うようになった。そして、今やセッションという言葉は耐久年数を超えはじめて、ほとんど意味のない言葉、場合によっては単なる悪質な霊感商法や開運商法になりつつある。あるいは、単なる参入障壁の低いお気軽にできる副業や、金儲けのための商材(いわゆる情報弱者ビジネス)に成り下がってしまった。また、SNSの発展によって、セッションをしなくても、すでにその人にとって必要な知識はだいたい手に入れられる時代になった。つまり情報にはほとんど意味がなくなった。
今後セッションという言葉は、鑑定同様、古い言葉になっていくと思う。セッションに代わる言葉は、「ミニストリー」だ。まずその前提として、ニューエイジ文化から、クリスチャニティ文化への大きな民族大移動が起こるだろうと思う。すでにニューエイジ文化自体が、商業主義に染まって腐敗してきている今、誰の目から見て明らかに「悪」に染まりつつある―つまり単なる金儲け主義に陥っているということを実感するようになってきている。正しいことを成そうとするならば、必ず正しい思想的なベースをもとに行動しなければならない。成る実を見て、その木を知りなさいということがイエス様の御言葉。大事なことは「知識」ではなく、どのように「信仰」を育むべきだということ。知識を教えてくれる人は無数にあるが、聖書に基づく正しい信仰のあり方を教えてくれる人はほとんどいない。これからの時代はここが非常に重要な価値となると思う。
知では決して人は救われない。信を共有してこそ、これからの時代の本当の救いは得られるようになる。日々そのことを確信する。
「「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」」
ルカによる福音書 6:43-45 新共同訳

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