信仰告白と迫害について

だんだん世の中のクリスチャンの動向が見えてきて、実名前提のfacebookはほとんどの人は使っていなくて、匿名が前提のtwitterに、ものすごくたくさん生息していることが分かってきた。twitter上のクリスチャンの交わりと、世論形成とうねり感がすごい。クリスチャンってだけで結構生きにくい社会というのはなってみてよくわかるし、わりとこういった集団特有のメディア特性もあるんだね。興味深い。
ちなみに、心無い人の無視や迫害は、十年来の親しい友達でも、信仰告白した途端に、あっさり人間関係を切って来る人もいて、え、そんな感じ!?と品位を疑うというか、びっくりすることがしばしばある。そういう人ってすでに4-5人はいたかな?
そういう人ってこれからの時代、AIなどの発達で言語の壁がなくなって、諸外国との文化的境界線がなくなっていった時に、どうやって生きるのだろう?と不思議になる。わりとこういうことは差別を受ける属性に入って、日本社会のマイノリティになってみないとわからないテーマなのかもしれないね。日本の閉鎖的な国民性というか、島国根性ってすごいなと、わりと実体験で感じることも多い。
まぁ、そもそも占い師だった頃からこういった扱いにはある程度慣れているので、今更なんとも思わないが、無視されたり、迫害を受けるということはそもそもクリスチャンとしてはむしろ喜ばしいことであって(クリスチャンは「世の塩」と言われる)、世には色々な価値観があってしかるべきだし、それはそれで全然ありだとも思う。自分が被害者のポジションに立たなければ、なんてことはない。
そもそも人間なんて皆罪深いもので、よっぽどこれまでの人生を振り返って、自分の罪深さを強く認識すればするほど、そんなものは可愛いもので、僕は誰一人として(無論そうした友人たちにも)頭は上がらない。長年の友人関係だって、主体的に培ってきた年月は尊いものなのは変わりはない。そもそもクリスチャンって、迫害を受けること自体あまり何とも思ってないことが多いので、また再会した時に、普通に話せばいいだけだからね。
主の赦しってやっぱ深いよ。道徳的な赦しの枠を超えた、霊的な赦しだからね。
主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

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