原罪を贖う究極の儀式としてのイエス様の十字架

多くの日本人に誤解されているが、イエス様の十字架は決して道徳的な規範によるものではなく、霊的な儀式であるということは繰り返し強調しておきたい。
イエス様はあなたもこのようにしなさいという道徳的な意味合いで自らの生命を十字架の上で屠ったのではなく、ユダヤ教の当時の霊的な儀式である「生贄」として自らを屠ったということ。
つまり私たちが、アダムの原罪以降、自分の生涯の罪を贖う方法として、人生の最後に死ぬ以外の方法がなかったところを、代わりに、霊的な儀式として代償的な意味合いで死んでくださったということ。それ故に、私たちはもはや死ぬ必要がなくなるので、「永遠の生命」が与えられると考えるわけで。しかもイエス様は創造主であるから、創造主がアダムを塵の中から造り出したように、3日後に復活なさった。そしてそれはできるのは創造主以外いないわけで、自らが創造主であることを示した。(創造主しか塵から人は作れない/創世記における天地創造の6日目の奇跡を実際に起こしたということ)
そうした決定的な祭り事が、卑弥呼の時代よりも2世紀前に実際にゴルゴダの丘の上であったということ。そしてその儀式の効果は2000年経った今もなお、このことを信じるだけで、しっかりと働くということ。
イエス様の十字架の上での罪の贖いと、3日後の復活を信じた段階で、私たちの内側に聖霊が宿り、チャネリングやリーディング、ヒーリングができるようになるということ。
そしてそういう仲間で集って、お互いを愛し合いなさいということ。それをエクレシア(教会)という共同体と呼ぶということ。
こういう素晴らしいニュースだから(福音)、色々な人に証をしながら伝道しなさいということ。
このことをこのニュアンスがうまく伝わるといいなと思う。

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