聖書の世界はよく知られている清貧だけでなく、清富(せいふ)も存在する。

聖書の世界はよく知られている清貧だけでなく、清富(せいふ)も存在する。アブラハムもダビデやソロモンも聖富。聖書のはたくさんの富に関する教えがあり、御言葉を学ばなければ決して清富にはなれない。また、清貧にもなれない。世にある多くの成功法則は、俗富に導くだけで、決してそれは真の成功とはいえない。大事なことは御言葉の上に、正しい富を形成していくことだ。御言葉は永遠。故にその信仰の上に組み上げられる富も朽ちることはない。ビジネスとはそのような盤石な創造主の御言葉の上に発展していくものだ。

単なるテクニックである引き寄せの法則や日本的ニューソート、自己啓発は、ベースとなる人格主義が存在しないので、多くの場合俗富もしくはしばしば俗貧へと導いてしまう。大切なことは、確かな人格主義の上に、富は蓄えられて、用いられていくべきということなのだ。

僕が立ち上げていくべき一つのエクレシアは清富と清貧とが、主イエスキリストにあって、聖霊に満たされ、一つに交じり合う教会。力あるものは、主イエスキリストの前で低くされることを誇りに思うべき。私たちは主にあってすべての人の僕(しもべ)である。この世に遣わされた使命を、世の中のため、人々のために分かち合って生きるべき。高きものは主にあって低くされることを誇りに思いなさいというヤコブの手紙の一節は、僕の人生を大いに一変させた。

そのことは箴言やコヘレトの言葉、詩篇を読めばよくわかること。階級社会化している今の時代、これからの時代の経営者にとって聖書の御言葉に砕かれ、謙遜な生き方、幕屋生活を送ることは何より大事。階級社会は富めるもの、社会的なリーダーにとっても命がけの時代であることを肝に銘じなければならない。主に悪と映る俗富になればすぐにでも神の裁きにあう時代だ。社会の十字架を背負わぬリーダーは、清貧と清富の正しい信仰と行いによって、滅びてしまうだろう。

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