宗教的差別

キリスト教が嫌いといって、学生時代から大切に培ってきた人間関係を切ったり、無視をしたりするという人も多いが、結果的にそれもまたイエス様がその方にとって、無視できない存在になるということ。少なくとも身近な人間関係の中で宗教的差別をしたことで、長年培ってきた大切な友人を失ったわけで。属性によって人を差別することは、肌の色で人を差別することと大して変わらない。そういう方の中には学生時代熱心に、世界平和や、宗教的な対話の大切さなどを謳っていた人もたくさんいる。
しかし決して恨まない。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すだけ。なぜならその人にとってもまたイエス様は常にそばにいてくださるから。そういう人間の愚かさを全て霊的に贖ってくださったのが、イエス様の十字架での死と復活という儀式。この恵みがあるからこそ、クリスチャンは自分を迫害する人をも、愛せるのだ。決して自分の能力や努力ゆえではないということが大切。主の平和。アーメン。
「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」
‭‭フィリピの信徒への手紙‬ ‭1:15-18‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/php.1.15-18.新共同訳

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