月別アーカイブ: 2019年10月

毎週土曜日のパワーブレークファーストの集いのお知らせ

毎週土曜日の朝9時~11時に、六本木グランドハイアットホテルのフレンチキッチンにて、国際弁護士の佐々木満男先生や、作家で牧師のジョセフケン先生をはじめとした、熱きリバイバリストたちに会って親交を深められる朝食会(パワーブレークファースト)を開催しています。

事の始まりは、ビジネスマンに向けた福音伝道を趣旨として創立されたINTERNATIONAL VIP CLUBの活動の一環として、第1・3・5土曜日の隔週での開催で、これまでも16年間開催されてきた佐々木満男先生が主催する朝食会に、私自身が参加させていただいたことがきっかけ。

ある時、牧師のケンジョセフ先生とお話しているときに、聖霊の注ぎによって意気投合し、いつもは開催していなかった第2,4土曜日も、ケンジョセフさんと私は出席し(つまり毎週出席して)毎週必ず集えるようにしましょう!ということになったことで、この会が毎週開かれることになりました。

参加をご希望の方は下記の予約フォームからお申込みください。参加費は無料で、飲食費のみ各自実費精算(コースではないのでお食事をされる方は数千円程度/飲み物だけであれば千円程度)となります。

VR/2D版「初めて聖書を読む方へ」をお届けします

VR版「初めて聖書を読む方へ」

スマホを使ったVRでの視聴方法はこちらの動画や、解説ページからご覧ください。

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2D版はこちらからご覧いただけます。

ハレルヤでアーメンな日々において

僕も含め周囲のリバイバリストの周りの人たちにイエス様への信仰に回心する人たちが増えてきた。ハレルヤでアーメンな時が来ているよ。リバイバルってのはこうやってやってくるんだね!ジーザスクライスト!!ハレルヤ!!アーメン!!

リバイバルの基本

ようはジーザスはハレルヤでアーメンなお方なんだよね。これがリバイバルの基本。

リバイバリスト

牧師や伝道師や教師、使徒や預言者というよりも、ようはリバイバリストというのが一番正確なのかもね。概念としてのレイヤーがひとつ層が違う。
そういう意味で今身の回りにいる人々は、リバイバリストだわ。アーメン!

「またか」「落ち着け」という反応について

伝道というレイヤーよりも、やはりリバイバルというレイヤーなんだよね。より大きなマスがシステムとして動く時代。
逆にリバイバルっていうとわりと教会の内側では「またか」「落ち着け」的な感じなんだけど、これからやってくる信仰回復運動ってそういうものでもない気がする。明らかにこれまでの霊的な傾向とは変わってきている気がする。聖霊の注ぎと、あとはテクノロジーの適応。この辺りの霊的環境、社会的環境、情報環境などがいい感じに準備が整っている気がする。

逆に最初に「またか」「落ち着け」という人ほど、むしろ昔にリバイバルに燃えた方々が多いので、結果的に話して行く間に、燃えていかれる傾向がある。結局のところイエス様と聖霊様、そしてお父様がそれをなさるのだと思う。

テクノロジーと宗教改革

VR伝道とリバイバルって何も今始まったわけではなく、そもそも宗教改革の際の活版印刷がまさにこれだった。当時の活版印刷はまさに教会権力を介在せずに、直接イエス様と出会う画期的な技術だった。テクノロジーとリバイバルは常に表裏一体の関係性にある。

「ゴッドファーザー」とクリスチャニティの精神

映画「ゴッドファーザー」の中でさえクリスチャニティ の精神は現れる。否、正確にはマフィア映画の「中だからこそ」と言ったほうがいい。クリスチャニティ は自らを義人と思う人のためのものではなく、罪人のための教えだからだ。どんな悪人においても、人格の上に人生を積み上げていける理由は、イエス様の十字架の贖いという霊的な儀式の執り行いがあるからだ。そもそもゴッドファーザーという言葉や概念自体が、カソリック の洗礼式の習慣から来ている。
マーロンブランド演じるヴィトーコルレオーネは、正義を「戦いのなかで振りかざす剣」と捉えず、「平和のうちに撒く種」と捉えた。それゆえ人々は彼の蒔く正義という種に従った。父親の正義を、戦いの中で振りかざす剣として捉え始めた段階で、アルパチーノ演じるマイケルはどんどん転落していくことになる。
いまの50代以降の方々が口々に言う「昭和の大物像」はまさにこのヴィトーコルレオーネが示す元型そのものである。そこにはすでにどんな罪人でも十字架の贖い故に義とされる神の慈しみ深き愛と、平和のなかに蒔かれる正義の種という共通する性質がある。現代的ポリコレや、ニューエイジ 思想のなかで小さくまとまった自己義認の器とは大きく異なる。その背景にはやはり主イエスキリスト がおられる。アーメン。

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。」
(ヤコブの手紙 3章18節 新改訳2017)

結局こういう作品の中に現れるような人間的な「器」こそ、経営者に求めらられる資質になるのだと思う。こういう失われてしまった精神を僕の世代から復興していくことが、リバイバルだといえる。アーメン。

私のために死んでくださった神

八百万の神々の国といえど、世界を創造した神ご自身であるにもかかわらず、さらには自らを最も低くし、すべての人の僕(しもべ)となり、私たち一人一人の罪を贖うために死んでくださった神はイエスキリストのほかにいない。クリスチャンの信仰の本質はここにある。こうした本質があったからこそ、当時の異邦人(非ユダヤ人たち)であるギリシャやローマの人々もギリシャ/ローマ神話を離れてまで、イエスキリスト に従った。むろんギリシャやローマにも、世界を創造した神が、すべてに人の僕(しもべ)となって、死んでくださったという神学的構造は存在しない。アーメン。

安定して成功している人の要因を観察していくと

社会人になってから、安定して成功している人の要因を実際の体験を通じて観察していくと、揺るぎない土台の上に自分の人生を置いていることがわかる。共通するのは人格主義。自分の感情の上に人生の基盤を置かずに、人格の上にこつこつと結果を積み上げていく。こういう方々の背景にはほぼ確実にイエスキリストがいる。つまり信仰がある。信仰がなければ、世にあって一貫した生き方を持つことは難しいものだ。敬天愛人を是とした明治の志士たちや、昭和の大物(最近50代以降の人からこうした「昭和の大物」がいた時代の話をよく聞く/おそらく何かしらの共通するアーキタイプを見ているのだと思う)たちの背景にあったものを回復すること。これがまさに信仰の復活、リバイバルになるわけだ。

安定した成功を収めていく人が、揺れ動きやすい感情の上にではなく、人格の上に自分の人生を積み上げていける理由は、何よりもイエス様の十字架を知って、信じていることで「罪責感」からの解放があるからといえる。自己義認ではない信仰義認によって、自然と人の愚かさを赦し、また自らも自らの罪を悔い改めて、日々新たにされていくからこそ、感情の上にではなく、揺るぎない人格的土台をベースとした人生を築いていくことになっているのだと思う。この辺りが言語化できるようになってきたことは、何より聖書の御言葉を学ぶことでもたらされる「よい実」の一つである。
すぐに技による救済論、ナルシシズムや、揺れ動きやすい感情の上に成り立つ自己愛的人生に陥るニューエイジ 的な思想を冷静に見つめ、乗り越えていかなければならない時代だと思う。

ビジネスマンは聖書を読むべきだと強く思う。

ビジネスマンは聖書を読むべきだと強く思う。

主の御心に沿って、安心領域を超えていくこと。

主の御心に沿って、安心領域を超えていくこと。人生は冒険であると同時に、常に主は私の避けどころ、私の砦。主にあって、私に乏しいことはない。アーメン!

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。 苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。 〔セラ 大河とその流れは、神の都に喜びを与える いと高き神のいます聖所に。 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。 夜明けとともに、神は助けをお与えになる。 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。 神が御声を出されると、地は溶け去る。 万軍の主はわたしたちと共にいます。 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。 〔セラ 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。 主はこの地を圧倒される。 地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。 「力を捨てよ、知れ わたしは神。 国々にあがめられ、この地であがめられる。」 万軍の主はわたしたちと共にいます。 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。 〔セラ」
‭‭詩編‬ ‭46:2-12‬ ‭新共同訳‬‬

わたしは福音を恥としない。

結局、主のため、人のために生きていると、与える力がついてくるから、自分が生きるには困らないほどの恵みはたくさん天から与えられる。大事なことはこの真理をシンプルに体感できる福音という素晴らしいお知らせを伝えていくこと。

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳‬‬

信仰をベースにしたビジネスマンの共同体

信仰をベースにしたビジネスマンの共同体を作る。これが今、召されている役割の一つ。
もちろんこれだけではないし、いろいろな方面でのエクレシアの立ち上げに携わっているが、しかし日本のクリスチャニティのリバイバルにおいて一つの重要な働きとなる。
俗富ではなく、清富の精神が今後の日本の霊性復興において非常に大切だ。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン!

日本のリバイバル

いよいよ人生が本格的に動く時だ。万軍の主とともに参ります。日本のリバイバルは、刻一刻と近づいています。主の御名においてお祈りいたします。アーメン!

アダムの罪

最大のディザスターは、アダムの罪によって人類に死が忍び込んだこと。全ての天変地異の原因も霊的にはここにある。この鋳型はすでにノアの箱船などにも象徴されている。
今回の祈りの中で気づいたことは、マタイ8章23-27の嵐を鎮めるイエス様の話が、実は、バプテスマの鋳型になっているということ。てっきり主に依り頼むことが大事という意味でしか捉えていなかったが、よく考えたらこの聖書箇所は、ノアの箱船と水によるバプテスマの伏線が敷かれているのだと気づく。
さて、今回の厄災も、僕にはどこか日本全土が水によるバプテスマを受けたような気がしてならない。これからやってくる天の水は、霊的な注ぎ。霊による洗礼がリバイバルという形で日本にやってくるような気がしてならない。
ちなみにこの鋳型は新海誠監督作品の「天気の子」でも同様にシンボライズされている。あの映画は日本的汎神論との世界観とクリスチャン的世界観との架け橋として見ると非常にスッキリと読み解ける。
日本的汎神論とは里山自然崇拝であり、天気とは父なる神そのもの。つまり天気の子とは、神の子のこと。天の上の水、霊によるバプテスマ 、十字架の贖い(神社の鳥居と十字架はユダヤの過越の祭で繋がる)という視点から見ても、「君の名は」がそうであったように、ある種、預言的な作品になっているのだと思う。

「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。 弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭8:23-27‬ ‭新共同訳‬‬

日々の積み重ね

日々できることをコツコツと。全ての物事を主イエスキリストにあって感謝します。台風など色々な厄災はやってきても、基本は同じ。主に依り頼み、自分ができることを信仰心を持って日々つみあげていくこと。最終的な解決解決は、イエス様の十字架の贖いによって永遠の生命にあずかれる福音伝道以外において他はない。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン!

【動画講座】初めて聖書を読む方へ

初めて聖書を読む方へ(前編)
初めて聖書を読む方へ(後編)

マンデラエフェクトを創造主がいるというサインとしてとらえる

マンデラエフェクトを経験した時 自分の意識が創造したのではなく ひとまず宗教を横に置いて 創造主がいるというサインだということに気づけば まずはそれでいいのだと思う。それが2000年前にヘレニズム社会において起こったこと。そういうパラダイムシフトが 汎神論優位の日本の中で起きつつある。

マンデラエフェクトが広く伝播し始める

マンデラエフェクトが先月twitter上で最初にバズり始めたのは 陰謀論をベースにしたエコーチェンバーの内部だったが ここ数日その外部にも伝播し始めた。指数関数の爆発的な曲線を描きつつあるので やはりここからものすごい勢いで飛び火し 今月中旬には相当なところまで広がっていくのだと思う。

終わりの日の聖霊のバプテスマ ―天の上の水が降り注ぐ

ヨエル書の終わりの日に全ての人に主の霊が注がれて、死と復活を体験するって、まさに創世記の中で、天の上の水が落ちてくることや、その中での死と復活を示すノアの箱舟を鋳型にしているんだなと思う。構造的に考えても本当によくできているなと、聖書を学べば学ぶほど強く実感する。

つまり終わりの日にすべての人に注がれる主の霊とは、まさに天の上の水ほどのものになるということ。このイメージ、とても良い。

主イエスキリストの御名において

そもそも日本人の中で、明治維新以降入ってきた思想を象徴する人物として、プラトンやアリストテレス(ギリシャ主義)が常に優位であり、イエスキリスト(ヘブル主義)はほぼほぼ意図的に無視されてきていること自体が、文化的受容として非常にいびつな構造になっている。分断が進む時代は、イエスキリストという人物像抜きに、統合はされていかない。こういう日本独特の文化的受容のひずみが今後、イエスキリストの御名において解消されていく時代になっていくだろう。アーメン。

リバイバル

絶え間ない霊の注ぎで、燃えまくっている。燃え続け、燃え上がり、燃え去ることはなく、絶え間なく注がれている。ヨエル書の霊の注ぎは、まさに創世記の中で、天の上の水が降ってきたように、人々にキリストにおいて、死と復活をもたらすのだと思う。ノアの箱舟、天の上の水、キリストの死と復活、そして、聖霊のバプテスマ、洗礼者ヨハネ、すべてが一つとなって注がれる。それが今日本で起こりつつあるリバイバルだ。アーメン!

主の恵みとともにある日々よハレルヤ!

主の溢れんばかりの恵みに圧倒される毎日。主よ私をあなたの御心にかなうように造り替え、あなたの道具としてお使いくださいと祈ったとたんに、わずか2ヵ月の間に、全く別の人生になる。そして、ありがたいことに主は、日々、低く、低くしてくださり、また、主の栄光と賛美とともに歩める人生としてくださる。日々ハレルヤであるし、本当に恵みの中に生きられるんだなと実感する。喜びに溢れる日々。本当に、しみじみとありがたいなと思う。よく「死ぬまでにやりたいことは?」「死んで後悔しないために」というが、そもそもクリスチャンは永遠の生命を得ているので、発想がもはやそういう視点ではなく、常に主とあって、喜びと恵みの中にある。これまでも、これからも、永遠に。主イエスキリストをほめたたえます。ハレルヤ!アーメン!