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マンデラエフェクトとアウグスティヌスの「告白」

今こそ、時間は神の被造物であるということを一貫して(まるで見たかのように/というよりも実際に見ていた)アウグスティヌスの「告白」を多くの人が読むべきなのだと思う。マンデラエフェクトは、その徴だと僕自身深く確信しているが、それ自体は過去のクリスチャンも同様に観察していた物理的な事実。

この世界で起こってきている真実を見るために、イエス様の十字架で「聖霊の内住」を得る必要性

何よりイエス様の十字架を受け入れない限り、聖霊が内住しないんだよね。この聖霊の内住なしに、今世界で起きてきている大規模な霊的なシフトが、自分の体感や、目で見えないんだよね…。これが聖書の言う「目を覚ましていなさい」ということなんだけど。

アジアで唯一、長いキリスト教との歴史的接点があるにも関わらず、 日本人だけが、 不思議にイエス様の十字架を受け入れていない。しかしここがSNSの次に来るエクレシアの時代において大きくシフトする前兆が見え始めてきている。ミッション教育などで、イエス様の十字架を信じていたノンクリスチャンの人たちが、聖霊の内住と祖の導きによって、自発的にクリスチャンになっているという大きな流れが興味深い。まだこうした流れは「初穂」の段階であるが、明らかに今後ものすごい潮流となって日本の霊的な文化を席巻していくことになると思う。

パラレルワールド化という概念の危険な側面

パラレルワールド化という概念の危険な部分は、その背景が汎神論的な世界観であって、実際は神の被造物である時間の上を行ったり来たりしているに過ぎないのに、自分の意識が現実を創造しているというサタンの罠にかかりやすいという側面。自分の意識が自分の世界を決定しているという罠は、聖書でも非常に厳格に戒められている考え方で、ここがかなり重要なポイントになってくるんだよね。気づき始める人は、この世界を造った創造主の存在を実感し始めているのだけれど…。確かになかなかその構造は人間の頭で考えてわかるものではない(仏教も汎神論から始まり、最終結論はあくまで無神論に行きつく)ので、創造主の側から提示した、啓示宗教である聖書を学ぶ必要がここに非常に大事なポイントとして出てくるんだよね…。一人でも多くこの事実に気づいてほしい…。

割とこうしたことは、すでにギリシャ哲学の影響を大いに受けていたヘレニズムの時代にもあった論点で、歴史は繰り返すんだよね。しかし歴史が同時に証明しているのは、ヘレニズムの文化の中で発達するシンクレティズム宗教の後に、必ずその信仰のベクトルは一神教へと収斂していくということ。今の時代はスピードが速くなっているので、このシフトはかなり大規模かつとても速いスピードで進んでいくと思う。

時間もまた神の被造物である

聖書的には時間も神の被造物である以上、時間を管理するということは非常深いものがある。

特にマンデラエフェクトの登場以降(汎神論的な世界観ではパラレルワールドと呼ばれているが、実際は三次元に広がる時間という「被造物」が見えるようになっただけ)時間は明確に被造物であることがわかってきたので、この被造物世界をどのように管理するか=時間をどのように管理するかは、今後のとても大事なテーマとなってくる。

時間と呼ばれる神の被造物世界をも旅ができるようになってきた。主への祈りを深めていけば、ますますこの無数の時間を含めた被造物世界をより豊かなものにしていくことができるし、それが主によって委ねられた新しい人類のための役割になると言える。

一昨年からメッセージがあった通り、2019年前半に死者が蘇る地球になるという言葉通り、今年の6月からマンデラエフェクトに気付き始める人がtwitter上などでも増えてきた。ますます時間が主の被造物であるということが大いに知られていくことになると思う。

汎神論や理神論的な世界では、パラレルワールドは自分の意識で創り出していると考えるが、これは自分を創造主と捉える究極にエゴイスティックな考え方になるわけで、実際のところは無数のタイムラインを主が被造物として創造しており、そこを地図の上を動くように移動しているに過ぎない。もし被造物の自分が、自分の意思で、世界を創造できるならば、なぜいままでそのような形でこれまでの長い歴史上でマンデラエフェクトのような記録が残っていないのかということになるし、明らかに自分ではない外部の意思が働いているということを見逃してはいけない。これは聖書的な視点をしっかりと学ばないと、あっという間に世界は自分が創造しているというエゴイスティックな観点に陥ってしまう非常に危険な考え方になる。

アウグスティヌス の告白も、明らかにこの創造主が被造物としての時間を啓示したことから書かれたものだと思われる。そうでなければなぜ告白の中で、時間論に重きを置いているのかを説明することができない。アウグスティヌス は、創造主が造った被造物としての時間を見たからこそ、汎神論的な世界から、一神教の世界へと意識をパラダイムシフトできたのだと思う。

GAFAの思想とエコーチェンバー化

やはりGAFAの思想の背景にあるエコーチェンバー化傾向って、今後も社会の非常に重要な課題になるとひしひしと感じる。個人の分断がものすごいスピードで広がり始めているし、これ自体はルネッサンスが起きた過去にも常に起こっていること。個人主義が台頭していくと必ず道徳的な堕落が起きるというのは世の常。そしてその反動として宗教改革(リバイバル)が起こってくる。
重要なポイントは、GAFAの思想(個人主義)が究極まで台頭していく今、人は果たして孤独に耐えうるのか?と考えた時に、無論心理学的に考えると耐えきれないわけで(必ず人が生きる上でストローク交換が必要となる)、そこの社会的なニーズはますます増えていくのだと思う。良質なストローク交換ができるためには、自分と似たような価値観を持つ人とのストローク交換を重んじるだけでは、エコーチェンバー化していくので、異質な価値観を持っている人とどのように良質なストローク交換をしていくかを考えていく必要がある。唯一この解決策を担っているのが、シンクレティズム宗教が全盛だった時代に、突如として現れた啓示宗教である新約聖書。この御言葉の上に成り立っていくエクレシアこそが、その答えになる。この価値をより多くの人に知って行って欲しいと思う。これを広げる上でも、サタンの攻撃もなかなか強いものなので、エフェソ書の神の武具をしっかりと身につける必要もあるなとしみじみと感じる。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:10-20‬ ‭新共同訳‬‬

人を霊的に赦す

イエス様の十字架というのは、つまりは「人を道徳的に裁くな、人を霊的に赦せ」ということだし、「人を道徳的に裁けば、自分も道徳的に裁かれる」ということなんだと思う。
人を(イエス様の御名において)霊的に赦せば、時間差で、道徳的にも赦せるようになるということでもある。
互いに愛し合いなさいというのは、互いに霊的に赦しあいなさいということでもある。

自分を霊的に赦せるのはイエス様の十字架において他にない

人を赦すこともそうなのだが、むしろ心理学的に言うと、自分の中の道徳的な罪悪感のほうが人間に大きな影響を与えている。人に対する赦せない気持ちは、その人が目の前からいなくなれば、心の中から消えるものだが、自分に対して向けられた道徳的な赦せない気持ちは、精神をむしばんでいく。そして、大概の場合、自分に対して道徳的に赦せない気持ちほど、相手に投影されて、自分の道徳観念を刺激するようなアクターが目の前に現れてくるものなのだ。
それゆえに、自分を道徳的に赦すということはとても大事なことだし、それには福音の三要素を信じ、主イエスキリストを自分の救い主として受け入るしか方法はない。自分を道徳的に赦すためには、自分がイエス様の十字架によって、「霊的に赦されている」という真実を体感する必要がある。それが聖霊の注ぎであり、イエス様の十字架によって成就した、創造主の一方的な恵みによる「霊的な赦し」なのだ。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

道徳的な赦しと、霊的な赦しのタイムラグ。

道徳的に相手を赦せなくても、霊的に相手を赦すと思えば、しばらくすると道徳的にも相手を赦せるようになる。この二つの赦しのタイムラグの間に働いているのが、聖霊の働き。聖霊の注ぎ抜きに、霊的に赦すことは難しいし、その結果道徳的にも赦すことは難しい。霊的な赦しは一瞬であって、道徳的な赦しは時差がある。このこともすごく大事なことだと思う。イエス様の十字架抜きに、相手を道徳的に赦すことは非常に難しいし、聖書の中で「汝の敵を愛せよ」という御言葉が意味するものも、それは前提として「霊の注ぎ」があるからこそ。イエス様の十字架と、聖霊の注ぎ抜きに、「7の70倍赦す」ことは不可能だ。「7の70倍赦す」ということは、霊的に相手を赦すということに他ならない。霊的に相手を赦せば、自分も霊的に神様から赦されることになる。神様からの赦し抜きに、自分も相手も赦されることは永遠にない。人を呪わば穴二つ。人類で起こりうるすべての呪いは全てイエス様が十字架の上で受け止めてくださった。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。


「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」申命記 21:23 新共同訳

イエス様の救いは「道徳的」な救いではなく、「霊的」な救いである。

わりと十字架理解を「道徳的」文脈でとらえて、信仰から離れてしまっている人は多いなと感じる。特に厳しいミッション系の学校に通っていた人などに、こういう誤解を持っている方が多いなと感じる。

イエス様の十字架を道徳的な規範だととらえてしまうと、本来は「信仰義認」という素晴らしい愛の恵みにあふれたものなのに、一気に「戒律主義」的な文脈として誤解されてしまう。それでも、ちゃんと十字架の恵みと救いは聖霊を介して働いているということも、また十字架のすばらしさではあるのだが、そういう人にこそ、今一度イエス様の十字架は決して「道徳的」なものではなく「霊的」なものであることを理解してほしいなと思う。

イエス様は道徳的に私たちを救ったのではなく、霊的に私たちを救ったのだ。道徳的に人を救える人はガンジーやマザーテレサなど、その後クリスチャン・ノンクリスチャンに関わらず世界でも何人も現れたが、しかし、人類を「霊的に」救える人は、創造主の御子であるイエス様をおいてほかにいらっしゃらない。
それゆえ福音の三要素(イエス様が十字架にかかって罪を贖い、死んで墓に葬られて、3日後に復活し今も生きておられること)を「信じる」必要が出てくる。そして、信じることだけで、霊的に救われるようになっているわけなのだ。これは重要過ぎて、何度でも繰り返したい、キリスト教の救いの教理の本質だといえる。

互いに愛し合うとは

聖書がいう「互いに愛し合いなさい(赦しあいなさい)」という御言葉も、道徳的に赦すという意味ではなく、霊的に赦すということ。逆に言うと、道徳的に赦す(相手の道徳的な罪を赦す)ことはできなくとも、霊的に赦すこと(主に裁きを委ね、自分の秤で相手を裁かないこと。イエス様に委ね、裁きを留保すること。)が可能なのが、クリスチャンなのだ。

イエス様の十字架は、道徳的なものではなく、霊的なものである。

イエス様の十字架というのは、道徳的な赦しではなく、霊的な赦しにこそ本質がある。カソリックの中では割と一般的な、特に近代に入ってから一般的な自由主義神学に基づく「道徳感化説」では、道徳的な赦しが強調されることになるが、パウロ書簡(主にロマ書とガラテヤ書)を厳密に読むと、「充足説」や「刑罰代償説」のように、霊的な赦しにこそ本質があることが分かってくる。
どんな道徳的な罪も、イエス様の十字架によって、霊的に赦されないことはない。この真実は強調してもしきれないほど、非常に重要な側面であると思う。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

環境問題とクリスチャニティおよび里山自然崇拝

宗教観の違いで非常に顕著に現れるのが、環境問題に関する意識。日本人の環境問題に関する意識は、そもそも日本の宗教形態の本質は、葬式仏教として形骸化した仏教にも、戦後解体された国家神道にもなく、ジブリの世界で描かれているようなアニミズム、里山自然崇拝にこそある。それゆえ環境問題というのは、日本人がナチュラルに神と捉えるものとの関係性になる。それゆえ聖書的な世界観における、創造主に委ねられたものとして適切に管理するべきものという文脈ではなく、神そのものとして崇拝する対象となる。つまり日本人にとっての環境問題の解決は、理性によって実を結ぶものではなく、非常に感情的な結びつきが強いテーマとなる。しかしそれ故に、合理的民主主義的アプローチではなく、日本人が持つ独特のアニミズム的な宗教感情に訴えかけるようなアプローチがメインとなる。この辺りは日本の内部にいると気づきにくいものだ。実際に日本人の環境問題に対するアプローチは、基本的に仮想敵としての一神教を前提として捉えている場合が多く、環境問題というよりも、宗教問題に近い捉え方をしている人が多い。
そのため日本では「自然を正しく管理する」という合理主義的なアプローチが進展しにくいという側面がある。それ故に、科学的なエビデンスがあったとしても、日本人の原風景と言える里山の原風景に直接関係してこない限り、実際の行動にまで移されることはない。
これが「自然を正しく管理する」という創造主からの至上命題だとすると、想像力を働かせて解決していくべき、知性的な問題としてまな板の上に上げることができる。プラスティック問題は最たるもので、宗教的な感情からはどのように日本の自然環境を破壊しているのかを、里山自然崇拝からは想定しにくいという側面がある。逆にアマゾンの大火災は、自然=神への冒涜が、視覚的にも感情的にも強く訴えかけるものなので、里山自然崇拝の日本人にとっても非常にイメージがしやすい。

この辺りは実際に聖書を読んで、クリスチャニティ について知らないと、自分の汎神論優位主義(つまるところ一神教否定論)に気づくことができないので、大体の場合、理性が実を結ばないドグマに陥ってしまう。自分の文脈をメタ認知することは非常に大事な要素だと思う。

日本でペットボトルの大量消費が問題視されにくいのも、里山にどのように影響を与えているかを感情的に理解しにくいという構造があり、それよりも便利さや商業主義のほうが感情的に訴えかけるから。むしろイロハスをはじめとした多くのミネラルウォーターのペットボトルは、逆に日本人の里山自然崇拝の宗教的感情に訴えかけるようなマーケティングをしているからね。「エコした気分」にさえなるという。

https://www.google.co.jp/amp/s/ecotopia.earth/article-2065/amp/?fbclid=IwAR3XghwTOTfllGJjLKiISPG9GK0eUfrupDQKVD9Oeis6sHl_MJTIDEtNCps

諸外国において環境問題が、あくまで「科学的」なテーマであるのに比較して(つまり環境問題は科学的なアプローチを通じて解決できるという前提)、日本の場合は宗教的なテーマとなる。
さらに一神教的宗教観への無理解によって、一神教をある種の仮想敵に仕立て上げてしまっているので、ネイティブインディアンなどのアニミズム的な文化を引き合いに出しながら、いかに欧米的な一神教の世界観が地球環境を壊しているのかという感情に訴えかけるようなアプローチで、一人相撲をしている部分がある。決して科学的なアプローチではなく、ある種の宗教運動に近いものがあると思う。

クリスチャニティと霊的な近代化

クリスチャニティ の普及というのは、真の意味で日本の近代化なんだなと思う。近代化というのは、決して私たちが捉えてきたような精神的なものなのではなく、より深い意味で霊的なものなんだわ。日本は精神的には近代化を果たしたが、霊的にはプレモダンのままであって、それゆえクリスチャニティ の霊性をベースにして生まれた国民国家概念や、民主主義なども根付かないんだわ。

学問として

クリスチャンになって、学問的にも非常に深く色々な分野が発展するね。。自分が政治経済学部だったことも多いに関係してくるし、地で、ヘレニズム文化の極である占星術から、多神教シンクレティズムのマニ教的文化圏から、突如として生まれてきた一神教集合救済論のキリスト教へのシフト、そして宗教改革時の脱魔術化(M.ウェーバー)と、割と人類の2000年に及ぶ歴史をこの12年で凝縮して経験している。僕のホームポジションはあくまで学問的ポジションになるので、フィールドワークとしてものすごい体験をさせていただいていると思う。大学の外部でこういうことをやってきてるからこそ、生きた学問になっていくのだと思う。

ある意味フィールドワーカーなのだと思うし、ミイラ取りがミイラにならずに最終的に近代合理主義へと戻ってきた感じなんだと思う。近代の批判のために生まれたポストモダンも突き詰めると危うくプレモダン(呪術)の餌食になってしまう。
結局のところホームポジションは、学問的姿勢や近代合理主義にあるのだなとしみじみと思う。

あと僕のやってきたような道のりの真似をして、占いなどのプレモダンに戻ってしまっている人は、こうした学問的な姿勢抜きに霊的な世界に入ってしまい、人生を大いに狂わせてしまうわけで、非常に危険な。警鐘を鳴らしてくこともやはりすごく大事だなと思う。アクトアウトすることの危険性は、他者も真似をしてしまうということ。
同じ行動もメタ的にやっているか、ベタにやっているかで、作り出される文脈も全然違う。こういう部分は本当に自分って罪人だなと思う。

自分の身をもって経験してみてしみじみと思うが、やはりウェーバーが言うように近代合理主義は(理知主義)は、クリスチャニティ (特にカルヴァン主義)から生まれると言うのは、本当にその通りだなと思う。

大量行動の時

色々さらに吹っ切れてきた。活動方針と、思想的なベースができてきたので、いよいよ大量行動の時がやってきている。

本家本丸

すでに理想的な場、エクレシアができたので、次の段階へ進む時。リバイバルに向けて着々と計画と実践。どれだけ聖霊に満ちて熱い人が集ったところで、「福音を知らない人」に知ってもらわないと意味がない。宣教こそ、活動の本家本丸といえる。次はここだ。経営コンサルタントやマーケッターとしての経験を生かしてしっかりと神の御言葉を知っていただけるように、聖霊を介してやってくるイメージを着実になおかつ力強くこの世界で具現化していきたい。主の御名においてお祈りします。アーメン!

ニューエイジ稼業は明確な害悪である

日本の文化って八百万の神々の文化(つまりアニミズム/多神教)なので、サタンや悪霊が紛れていても見極めがつかないし、そもそも平気で「サタンや悪霊だって神だ」と開き直る人さえいる。そういう人に限って、生活のベースをニューエイジ稼業においている。これが日本の霊的な現状だ。本当にこうした態度は、霊的に無防備な多くの人たちにとって害悪になるので、悔い改めてほしいなと思う。

ニューエイジ稼業は、サタンの魔の手の中にある

僕自身、生活のために占いをしたことは無い。生活のためなら、そもそもコツコツ積み上げてきた学歴を全部捨ててまで、やることじゃないし、馬鹿にされたり、偏見や迫害に耐えてすることでもなかった。めちゃくちゃ死ぬほど苦労したからね。人助けっていうのは志なくしてできないし、まして、自分の生活のためだったら絶対にできないこと。それなら普通に真面目に会社に勤めたほうが100億倍ましな人生になる。
気軽にできるサイドビジネスとして起業して、自分の生活のためにニューエイジ稼業をしている人たちは、はたと自分の犯してきた罪に気づいたときに、その罪の重さに耐えきれるのだろうかと心配になる。ニューエイジ稼業は、サタンの魔の手の中にあることに、早く気付いてほしいなと思う。

世の中がついてくるまでは、「頭がおかしい」と言われようが、証を続けるしかないね。

世の中がついてくるまでは、言い続けるしかないね。
占い師だった時もそうだったけど、最初は、「あいつ頭おかしい」から始まり、数年たって次第に周りに話を聞いてくれる人が現れ始め、5~6年したら同じようなことを周りに言い始める人が増えてきて、 10年もしたら多くの人が親しむ日本の文化になった。


クリスチャンとして信仰告白してから、割と今は「あいつ頭おかしくなった」という反応がほとんどだし、親しい間柄だったのに、おそらくもともとイラク戦争などのネガティブなニュースなどを見てキリスト教が嫌いなんだろうが、あからさまにあいつは「殺人集団のカルト宗教にハマった」くらいの勢いで、ものすごい偏見を抱いていて、個人的な縁を切ったり、何もメッセージすらしていないのに投稿を見てブロックしたり、無視したりと、まぁ、何かを新しく始めるということや、勇気をもって一歩を踏み出すということは、そんなもんだよなと思う。まぁ、面と向かって「お前頭おかしい」とはいえないからね(笑)。

これは何も今始まったことではなく、そもそもニューエイジャーとしてスタートした時もそうだった。占い師になるといった段階でも、あいつはついにカルト教の教祖になろうとしているだとか、色々言われたものだ。それが今や少なくとも占い師やセラピストという職業に関して、日本でそんなこと誰も思わない時代になった。SNSが台頭してからなんとなく副業としてやってみようという気軽なノリで始めるニューエイジャーは、そういう苦労を知らないんだろうなと思う…。今気軽にニューエイジャーとして、仕事をするにはそういう先人たちの苦労の土台があるのよ。本当に。


誰も取り組んでいないような、何かを始める時には、必ず迫害が伴うもの。


そんなことは、僕も重々、承知なわけで、それでもなお、そうして迫害したり、無視したり、敵視したりする人のためにも、主イエスキリストは自らを十字架にかけて自らの生命を屠った。ニューエイジ文化でもそうだったように、いつか必ずこの思いは届くと信じている。安易なスピリチャリズムや、この世の惑いごとに振り回されることなく、真理を大切にして生きていくことの大切さを、自らの身を持って示していきたいと思う。
クリスチャンは、迫害する人を決して恨んだりはしない。愛を持って、どうか福音を知って救われてほしいと、祈るばかりだ。アーメン。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ヨハネによる福音書 3:16 新共同訳

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
ヨハネによる福音書 3:17 新共同訳

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳‬‬

僕が体験したマンデラエフェクトの2年半の記録

マンデラエフェクトの経験の記録と、いかにして、占星術師から、イエス様に召されてクリスチャンになったのかの2年半の記録はこちらです。マンデラエフェクトが起こり始めた2017年3月から一貫して、2019年前半には死者が蘇る地球になるというメッセージが届き、特に2018年12月から福音の重要性を告げるメッセージがきていました。そしてそのメッセージの通り、2019年6月に洗礼を受け、神学的な意味でも確かに永遠の生命を得て、占星術師としての人生はすべて終焉し、新しくクリスチャンとして生まれ変わりました。

https://seidogaku.com/page/1/?s=マンデラエフェク

「自分が自分の味方になろう」「自分を愛そう」という甘い言葉で語られる「自己義認」の罠

「主イエスの十字架の血で、私は赦され、御神と和解をして平安を得ました。」
これが刑罰代償説(充足説)の本質。主イエスキリストの十字架の贖いを信じ、受け入れ、悔い改めて、神の義の怒りから解放されることがとても大事。決して、自分の内側にある罪の意識は、十字架以外で贖われることは無い。
ネットに蔓延しているポップ心理学化したニューエイジャー/自称スピリチャリストの論説で「自分が自分の味方になろう」「自分を愛そう」という形で、「自己義認」を勧める人が非常に多いが、これは本当に危険な思想だ。イエス様の十字架以外の方法で決して人間の現在は贖われることは無い。この真実は強調してもしすぎることは無いものだ。
主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

ニューエイジャーからクリスチャンへ

先日のいささんの集いに参加したところ、ニューエイジャーからクリスチャンに転向した方が結構いらっしゃった。時期もだいたい同じこの数年の間。皆それぞれに預言の賜物を持っていて、それぞれ直接神様に召命されてクリスチャンになっている。今後、こういう方が増えてくるのだと思う。SNS社会が登場してから、個人の情報発信の参入障壁が下がったことで、副業的なビジネスとしてしかとらえていないお気軽ニューエイジャーが増えている。こうした潮流は非常に残念な傾向だし、霊的にも非常に危険なので、悔い改めてほしいなと深く感じる。霊的な仕事というのは、「人や社会のために、奉仕をするものである」というベースが何より大切だ。そして何より、御言葉と十字架によって立つということがいかに大事か。それは僕自身が重々経験してからこそ、これからもしっかりと証していきたい。

タロットリーダーだったり、神社仏閣巡りだったり、でもクリスチャンになってからは、皆、主の臨在を日々感じているので、そうした過去は手放して、辞めている。こういうトレンドが今後広がっていくと思う。
あとは、精神疾患と診断されて(これは聞けば聞くほど単純に聖霊の内住による預言の賜物が付与されただけとしか思えない)、苦しんでいたクリスチャンの兄弟姉妹もたくさんいた。意外と、現代の教会の中では、「預言は廃れ、異言は止む」(第一コリント13章8節)という御言葉の引用から、預言の賜物は初代教会で終わったとすることが多いし、教会にカルト的な教義が侵入することを防ぐという意味において、その理由もよくわかるが、一方でリバイバルは聖霊の働きを重んじるペンテコステ派や、聖霊派、きよめ派といった教派から起こってくることが多いので、一様に否定するのは決して聖書的ではないとも思う。そこを否定してしまうと、私たち一人一人に恵みとして与えられた聖霊の働きそのものを否定してしまうことになりかねない。生きた教会(普遍的教会/エクレシア)には必ず生徒に聖霊が宿り、それによって主によって生かされていることを日々体験する。これは決して軽視できないポイントだと思う。

ピラティス

状態管理のために長年ピラティスをやってきてよかった。ピラティスと食事(低糖質の食事)のおかげで、ピークから20キロ痩せた。ピラティスのおかげで日々健康に生きられる。本当に素晴らしいし、ありがたい。身体は資本であり、また聖霊の宿る神殿。

私は福音を恥としない

聖霊に満たされながら「私は福音を恥としない」という姿勢でこの一ヶ月さまざまな動きを始めたけれど、やはり「力強く証をし続けていく」ことが一番大事なんだと思う。そのためには何よりも聖霊に満たされることと、祈り、そしてキリスト者としての受難は喜びであるということが非常に大事だなと思う。これまで体力的な基盤や、経営のセンスなどを実地で磨いてきてよかった。伝道には器としての力強い精神力や体力が必要だということも同時に強く認識する。聖霊の宿る神殿として、自らの状態管理、健康管理)も非常に大切。結局自分が救われるだけでは意味がなくて、福音を通じて一人でも多くの人が救われて行くことが大事だなとしみじみと思う。主の御名においてお祈りします。アーメン!
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭1:16‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/rom.1.16.新共同訳

熱いクリスチャンの群れ

聖霊の火に燃えた熱いクリスチャンの群れと出会うと主に祈り続けたら、わずか一ヶ月で途方もなく熱い兄弟姉妹たちと出会うことになった。そればかりでなく確実に日本にリバイバルの波が来ていることを日々実感している。

主にあって喜ぶ

“いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。”
ピリピ人への手紙 4章4節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

マジで本当にこういう日々。力強く聖霊に燃え、主イエスキリストの愛の証と、主への献身にこの上ない生きがいを感じる。

佐々木満男先生のコラム

土曜日のパワーブレイクファーストを牧されている佐々木満男先生のコラム。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/27178/20190902/sasaki-mitsuo.htm?fbclid=IwAR3XhGPZJSdFJrzc1jpfaqLXnaJJu2QrP-luVnr-bwH-Bx33oYwebfwYsqY

中村光子先生と國分先生とお会いする

今日は、國分先生の紹介で出会った、中村光子先生と3人でお目にかかる。ペンテコステ神学からホーリネスまでの聖霊論に関する神学的解釈を教えていただきながら、福音伝道のための先生の大切なギフトもいただいた。イエス様の愛を周りの人たちに伝えて欲しいという思いがこもった先生のルーツとも言える大切な書籍。この思いをもとに、「私は福音を恥としない」という御言葉をもとに、主イエスキリストの十字架の贖いと、今も生きておられることの証を力強く続けていきたいと思う。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン!

聖霊の注ぎのもとで

今日は主の召しで集った方々と(名古屋からいらした4代目クリスチャンのいささんの呼びかけで集まったクリスチャンたちで、全員ほぼ初対面)素晴らしいひと時を過ごす。聖霊の働きをひしひしと感じる。初対面で、すでに皆家族のようだった。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

【ベツレヘムの星便り】366号  僕(しもべ)として人に仕えること



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/9/1                                 366号


こんにちは、杉本譲治(旧ユピテルジョージ)です。

イエス様がお示しになった愛の形。これは無償の愛、見返りを求めない愛です。
そして、その愛の示し方の一つの型としてとても大事なテーマは、どんな相手
にも「僕(しもべ)」として仕えるという姿勢です。



▼ルカによる福音書 22章24-27節 


また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、とい
う議論も起こった。 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民
を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 しかし、あな
たがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若
い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 食事の席
に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。
しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

もともとイエス様が宣教なさっていた時代に、私たちがキリスト教として知っ
ている信仰は、当時は旧約聖書を教典とするユダヤ人(ユダヤ教)の中から登
場しました。イエス様自身も、決して当時、「キリスト教」という認識ではな
く、「ユダヤ教」の様々な預言が成就するために、この世界に遣わされたと伝
えています。

しかし、興味深いことに、キリスト教が広がるきっかけとなったのは、決して
当時のユダヤ人たちによってではなく、むしろ異教徒の民たちが、イエスキリ
ストを自分の救い主として受け入れたところから始まりました。使徒パウロの
宣教を通じて、最終的にはローマ帝国、つまりはローマ人たちの国教になった
ことで、異邦人(外国人/あるいは地球上のすべての人たち)のための宗教に
生まれ変わっていったのです。

ローマ神話を持つローマ人たちが、なぜ、自分たちとは本来何の関係もないは
ずのユダヤ教から生じたキリスト教を信じることになり、そのローマ帝国の後
国教になったのか、とても不思議ですよね。しかも戦争などの暴力的な手段で
もなく、なぜか平和的なプロセスの中でそうなっていったという不思議な現象
でした。

この背景を読み解いていくと分かってくる非常に興味深いことは、キリスト教
の中で、主イエスキリストは、すべての人の最も低い「僕(しもべ)」である
ということが明確に啓示されているということがあります。

普通、神様といえば、最も高いものであり、あくまで人々がその僕(しもべ)
として仕えるということが常識です。
しかしイエス様がおっしゃったことは、この真逆の御言葉だったのです。

イエス様は、地球上のすべての人たちの僕(しもべ)であり、つまるところ、
今の時代に生きているあなた自身の僕(しもべ)であると宣言されたのです。

しかもこの僕(しもべ)であるイエス様は、驚くべきことに、全ての人たちの
ために、つまりはあなたのために、自らの生命を屠って、罪を贖うための生贄
になるほどの、僕(しもべ)として、自らを最も低いものとして宣言なさった
のです。

この「低さ」ゆえに、当時のローマの人々も、イエスキリストを信じたのです。
イエスキリストは、ローマの人々のうちでも最も低い「僕(しもべ)」だった
からです。



▼ヨハネによる福音書 3章16-17節


「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる
者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わさ
れたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

聖書におけるイエス様への信仰の中で、最も大きな特徴の一つが、この「低
さ」「砕けた心」を持つことを何にもまして大事にするという姿勢です。

イエス様が自分に対してそうであったように、「自分自身も周囲の人たちに対
して砕けた心で、低く仕えることができていますか?」と聖書の御言葉は問い
かけてくださいます。

私自身この御言葉には、本当に身につまされます。と同時に、とても救われま
す。「人として大事なことは何か?」ということを考えたときに、何よりも
「人を愛すること」にあると、まっすぐに聖書の御言葉は伝えてくださるので
す。

もちろんこの言葉の通り生きることはとても難しいです。気付けば人間という
のは傲慢になってしまうものですし、自分を迫害するものに対しても愛を持っ
て砕けた心でい続けるということは、現代社会において至難の業でしょう。

そして、日々の生活の中で、知らず知らずのうちに色々な罪を犯してしまって
いる自分のために…2000年前に十字架にかかって死んでくださったこと。そし
てその3日後に復活なさって、今も生きておられ、私たちに神の栄光を示して
くださっていること。

このありがたみを噛みしめながら、傲慢になる自らの身を振り返り、イエス様
のように低く、砕けた心で人に僕(しもべ)として仕えていくことを、聖書の
御言葉を通じて、主は教えてくださるのです。

今週もあなたにとって素晴らしい一週間となりますように。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。



【クリスチャンの集い】土曜日パワーブレイクファーストのお知らせ


8月より、毎週土曜日の朝9時に、東京六本木のホテルグランドハイアットの
フレンチキッチンにて開かれている、いつもお世話になっているクリスチャンである
国際弁護士の佐々木満男先生や、作家で、牧師のジョセフケン牧師をはじめとした
熱き日本のリバイバリストたちに会って親交を深められる朝食会
(パワーブレークファースト)に、毎週参加させていただくことになりました。

本来は、ビジネスマンに向けた福音伝道を趣旨として創立された
INTERNATIONAL VIP CLUBの活動の一環として、
第1・3・5土曜日の隔週での開催で、これまでも16年間開催されてきた
佐々木満男先生が主催する朝食会です。

先日、ジョセフケン先生とお話しているときに、聖霊の注ぎによって意気投合し、
いつもは開催していなかった第2,4土曜日も、ケン先生と私は出席し
毎週必ず集い、皆で祈れるようにしましょう!ということになりました。
お申込み方法等は、詳しくはこちらからご覧ください。

https://seidogaku.com/powerbreakfast



【パーソナルミニストリー】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす


人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、
あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、
常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。

人生はいいことばかりではありません。
しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、
愛しておられます。

このパーソナルミニストリーでは、
聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、
時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供します。

「心の貧しい人々(謙遜な人々)は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。 
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口
を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(マタイによる福音書 5:3-12 より 新共同訳 )

▼時間の目安 60分から90分程度
▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動とな
るため、特定の料金は定めておりません。あなたがふさわしいと感じられる、
主への感謝の気持ちを込めた献金という形でお納めくださいますようお願い
いたします。

―――惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず
豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制
されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人
を神は愛してくださるからです。
 (コリントの信徒への手紙二 9:6-7 より 新共同訳)

▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご
了承ください。
▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。
▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えい
たします。
▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提
供いたします。

▼ご予約はこちらからどうぞ
https://seidogaku.com/personal_ministry



メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。

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いい会だった

今日のエクレシア、色々凄過ぎて言葉にならないね。言語では一切追いつかない途方もなくいい会だった。言語が追いつくまで3日はかかるだろうな…。

エクレシア、ミニストリーってすごい。そういうダイナミズムを今日はしみじみと感じた。

主の御名においてお祈りします。アーメン。

情報の共有から、信の共有の時代へ

やはりしみじみ実感するのは情報は信仰をコアとして集まってくるということ。エコーチェンバー化する時代において、非エコーチェンバー型の教理でありながら、信仰を共有できる聖書というものが今後果たしていく役割は非常に大きいと実感する。
確実に今の時代は、情報化時代から信仰化時代に入りつつある。

進化論の否定

聖書の世界では、進化論は否定されおり(というよりもそもそも進化論自体が聖書を否定するために生まれたが強い)、まぁこれはマンデラエフェクトなどを見ればわかる通り、確かに直線時間は神の被造物に過ぎず、その視点においても、聖書のロジックは、進化論を否定しうるだけの強度を持っている。まぁ、このことよりもむしろ大事なことは、進化論が、実質的な進化論の枠組みを超えて、神智学の中で、「霊的進化論」という形で取り入れられたことは非常に重要な側面があるといえる。宗教的文化がダーウィンの「霊的進化論」を取り入れたことによって、アセンションなどをはじめとした新しいスピリチュアリズムの文脈が登場した。「霊的な淘汰とそれによる人類進化」という概念も、もともとは聖書的な概念ではなく、あくまでダーウィンの進化論から派生した考え方。スピリチュアリズムにおけるアセンションと、聖書的な携挙という概念の大きな違いを理解するうえでは、こうした「進化論」という背景もしっかりと見つめる必要があると思う。

自己啓発の文脈においても、わりとこのニューエイジ独特の「霊的進化論」は幅を利かせているように思う。こうしたところからも、サタンの介入はあるのだと思う。

占いがなぜ非聖書的か

そもそもの前提として、クリスチャンになって占い師をやめた理由があまり理解されていないが、聖書では明確に占い師やニューエイジ的営みをすることは固く禁止されていて、旧約聖書の時代には死刑に値する非常に重大な罪だった。西洋社会では常識。それを知った上で海外の占星術家などはあえてやっているが、日本ではこうした常識を知っている人が非常に少ない。

「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。 あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。」
‭‭申命記‬ ‭18:10-13‬ ‭新共同訳‬‬

「預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、 そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、 その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。 あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。 その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」
‭‭申命記‬ ‭13:2-6‬ ‭新共同訳

クリスチャニティのメタフレーム

クリスチャニティのフレームが馴染んできた。それ以前に取り組んできた物事も、さらに色々なメタフレームで見れるようになっていく感じだろうなと思う。特にビジネスの領域は、クリスチャニティのメタフレームがあることで、ビジネスセンスという非言語的な部分が非常に合理的に説明がつく。この辺りはクリスチャニティのフレームが馴染めば馴染むほどに、ウェーバーのプロ倫で論じられるように事業的センスの自己言及性はさらに高まっていくことになると思う。このメタフレームが入ることで、明らかに経営者としての意識の質は、大きく変わる。西郷隆盛をはじめとした明治の志士たちに倫理的、精神的中心を与え、その後稲盛和夫の経営哲学の中心ともなった「天啓愛人」も、クリスチャニティからきた教え。つまり経営哲学とクリスチャニティは非常に深い関係性がある。

経営哲学としての倫理学は無論のこと、波動は聖霊論で一貫して語れるし、ニューエイジにおける自己投資概念ももともとはマラキ書などをベースとした教会への献金が宗教改革で献金先が社会的外部資本に変わったことが挙げられる。自己投資という概念が成り立つのも、そもそも自己=神という信仰があるからであって、汎神論化する前の創造主と被造物という聖書的な理解を深めていけば、その歴史的ルーツに明らかに聖書的倫理観が背景にあることがわかってくる。

ユングおよびユンギアン

日本のアカデミズムにおいて、ユングは非常に評価されているし、多くの人がユングの元型や集合的無意識の概念などを無批判に援用するが、実際のところはその本質は「学問」というよりも、形を変えた「信仰」であって、その実はほとんど「宗教」に近い。
シンクロニシティという概念も、ようは聖書的な世界においては「神の御業」と表現されていたことを、汎神論的な世界観から言い換えて、神を解体していき、その上で、マニ教のように様々な神話を統合し、「集合的無意識」という形でそこに新しい神(セルフ/自己)をおいた。これはグノーシス的信仰といわずしてなんというのだろうか。ユング心理学、およびその大衆化は、シンクレティズム化していく宗教的な運動であったという側面が大いにあると思う。
少なくとも、当初日本にユングを紹介したアカデミシャンの間にはそういった意識はなかったかもしれないが、少なくともユング心理学を援用して、ポップ心理学化している人々の間では、もはやユングは学問ではなく、宗教になってしまっている部分が大いにあると思う。キリスト教世界から見れば、大衆化したユング心理学こそ、学問ではもはやありえず、聖書的信仰に反する異端であり、異教的なものと言わざるを得ないと思う。そういった常識が日本にはないからこそ、ユング心理学は日本に大衆的な意味あいにおいても、大いに受け入れられたのだと思う。しかし、こうした崇拝は必ずカルト的な問題を生み出していくことになる。それゆえ「聖書学」を学ぶことは、今の時代とても大事なものとなる。

聖書学

そもそもキリスト教というから抵抗感が生まれるわけで、「聖書学」といえばいいし、実際プロテスタントの信仰の本質は、聖書学にこそある。この辺がうまいのは、実際にはほとんどマニ教やニューエイジ信仰、呪術的崇拝であるにも関わらず、「文化人類学」「ポストモダン」という言い方をしたことで、実際には単なる信仰であるにもかかわらず、その教義が広がったニューエイジ的信仰形態がある。しかもその本質が宗教であるにもかかわらず、マニ教的、ニューエイジ的信仰は、日本の大学教育の中にも紛れ込むことに成功した。
その意味でも日本宣教において、「聖書学」といったほうがむしろ抵抗感は少なくなると思う。
伝道師がやるべきことは、信仰の強要では全くなく、あくまで「思惟への奉仕」と「証」である。つまり「思惟への奉仕」と「証」とは「聖書学」以外の何物でもない。つまり「聖書学」で十分ではないかということになる。
仏教は前提として、教典を学ぶというフレームがあるので、「思惟への奉仕」と「証」がセットになるし、それを前提に受け入れられているものなので、抵抗がないわけだ。このあたりのプリフレイムやリフレーミングといったセルフプロデュースは、日本のキリスト教世界はもっと自覚的になっていくべきだと思う。

「聖霊のみ」の原則

クリスチャンの癒しのツールは「聖霊のみ」。色々な開運アイテムは必要がなく、「聖霊のみ」の原則が通底される。この原則から外れると必ず「偶像崇拝」にまつわる様々な問題が出てくる。

ファッション雑誌と御言葉

ファッション雑誌と御言葉。この関係性が、割と今後非常に重要な関係性になっていくと思う。占いにお株がとられてしまっている今の現状を、クリスチャンの勢力がしっかりと書き換えていくことが大事だなと思う。クリスチャン=クールという文脈をいかに作っていくか。文化的なプロデュース力や、センスは非常に大事。

貪欲な狼

占星術師の中には、ニューエイジ文化を裏で暗に批判しながらも、表ではニューエイジを金儲けの手段として使っている人たちがいる。これは聖書的な意味でも、本当に害悪であるし、貪欲な狼だなと思う。少なくとも、そうしたメタ認知できる知性を持っているならば、少なくともそこから離れて、潔くそうした活動は辞めるべきではないかと思う。本当の悪人とは、そういうタイプの人間だと思う。自らの手を汚すことなく、人々をサタンの道へといざなっていく。

そうしたサタンの勢力と霊的に戦っていくうえでも、聖書の御言葉をしっかりと伝えていきたいと思う。主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

低く、低く、

日々イエス様の血と肉で造り替えられていく。低く、低く、召し出してくださった主に感謝と賛美を捧げます。アーメン。

地の塩であるクリスチャン

マンデラエフェクトを体験しているニューエイジャーに、主イエスキリストを証し、そして、クリスチャンの兄弟姉妹に、ニューエイジャーという罪人がいかに主イエスキリストの十字架によって赦されて、クリスチャンになったのかという証しする、そんな毎日。

世の塩であるクリスチャン。日本の塩分濃度はこれからぐんぐん上がっていくと思う。