カール・バルトと科学精神の限界性の超克

結局カールバルトがやろうとしたことは、科学精神の限界性の超克だったんだわ。

パラレルワールドは実際はパラレルワールドではない

ほぼ確信した。論理的に考えてみても、やっぱり創造主はいらっしゃるね。パラレルワールドというのは科学がベースとしている「理神論」における思惟の限界性によって作られている苦肉の策で、実際は時間は創造主の被造物なんだわ。「理神論」では構造上、絶対に「創造主」という存在を想定できないし、証明もできない。あくまで創造主の実在性は、 その神学構造上 カール・バルトの弁証法神学のように、「啓示」と「弁証法」によってのみ証明できる。
CERN(欧州原子核研究機構)が大型ハドロン衝突型加速器で、パラレルワールドを生成しているという話もあるが、これはかなり初期の段階で自分の神智学研究の中では、その可能性を否定された。個人の意識振動数がブッディ層に入ることで、時空間を超えることは、すでにもう何千年も前から記録があること。つまり何もこれ自身は今に始まったことではなかった。しかし従来はこうした振動数に入るのはものすごい修行と鍛錬が必要だったが、今は普通の世の人が皆体験するようになっている。つまり、人間サイドの行いによってではなく、主の御手によって、原罪によって直線時間にへばりついていた人間が、信仰義認による救済によって立体的な被造物である時間へと移され始めているということ。アウグスティヌも「告白」の中で、時間は創造主の被造物であるということを体験的に書き記しているのだが、彼もこの体験の中から、この世界は決して汎神論/理神論的な世界観では理解できるようなものではなく、創造主が現に存在していることを明確に悟るようになったのだ。

この世界に主の栄光が燦然と輝く

何だかよくわかんないけど、この世界に主の栄光が燦然と輝いている。すごい。

中村光子先生のレクチャーにて

昨日の中村光子先生のレクチャーで教えていただいた御言葉。ホーリネス神学を非常にわかりやすく、的確に教えていただける。本当にありがたいこと。

「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭2:4-6‬ ‭新共同訳‬‬

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭7:37-39‬ ‭新共同訳‬‬

「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
‭‭フィリピの信徒への手紙‬ ‭2:9‬ ‭新共同訳‬‬

「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭5:27-34‬ ‭新共同訳

パラレルワールドの実在性と、聖書の御言葉

パラレルワールドが実在することは、マンデラエフェクトが一般化するにしたがって体験的な常識になっていくのだろうが(おそらく新海監督をはじめとしたパラレルワールドをベースにした映像作品の作家たちはすでにご自身がこうしたを体験なさっているのだろうと思う)、そうすると今後の焦点は、果たしてこの現象は、「自分の意識」が作り出しているのか、「創造主」が作り出していくのかというテーマに論理上行きつくことになっていく。つまり非常に神学的なテーマにぶつかっていくことになる。これからの時代の焦点はそこに移っていくんだろうなと思うし、その中で聖書の御言葉が、汎神論的な世界をベースとした日本においても、論理的な帰結として、読まれていく機会は増えていくだろうと思う。

パラレルワールドの本質

素粒子物理学が発達したことで、この世界が非線形の時間、パラレルワールドでできていることが明らかになってきた。しかしこの世界観を受け入れること自体が、そもそも科学がその思惟のベースとしていた、時空間への定義への論理的矛盾を生み始めてしまっている。そもそも科学的思索は汎神論の延長線上にある理神論的信仰に基づく思想なので、決して創造主の実在に理論的に帰結することが無くなる。というのも、そもそも創造主の実在を認めてしまった段階で、科学的思惟は成り立たなくなる。たぶん科学者の中でもこうした神学的な問題にぶつかっている人は多いのではないだろうかと思う。

マンデラエフェクトと陰謀論

Twitter上でマンデラエフェクトを言及なさっている方々は不思議なことに、陰謀論をベースに持っている人が多いのだが、確かに汎神論的な世界から捉えると、そもそも前提として創造主の実在という結論には神学構造上至り得ない(仏教のように無神論に帰結せざるを得ない)ので、確かに「誰か」が世界を動かしているのだと見えるのは当然のことだし、その動きが陰謀のように見えるのは確かにそうなのだろうと思う。実際にこの世界は全知全能の創造主が造った世界だからね。
この世界のリアリティの裏側には、創造主と、それを裏切ったサタンを長とした悪の諸霊がいることは確かだ。
サタンはもともと神の被造物であって、天使のリーダーであったが、その後1/3に天使とともに堕落し、悪霊を率いる存在になった。創造主はもちろんのことながら、サタンや悪霊も実際に存在していて、被造物こ世界であるこの世に大きな影響を与えている。
ただしばしば間違えやすいのだが、聖書の世界は善と悪の戦いの歴史ではなく、そもそもサタンは神の被造物であり、のちに悪に堕落した存在であるということ。そして主イエスキリストの贖いによって、すでにサタンはイエスキリストに敗北している(完了形)ということ。創造主と同一の神である主イエスキリストの御名においてサタンや悪霊はもはやなんの影響力も持ち得ないというのが、聖書の神学の基本構造になる。
しばしばあげられるフリーメーソンやイルミナティという存在も、ようはこのサタンの影響下にあるグノーシス主義の群れのこと。フリーメーソンは実在するし、その背景的神学は基本的にグノーシス主義に基づいている。グノーシス主義は三位一体の構造は取らず、必ずイエスキリストよりも高い権威性を持った神をその上に置くという神学構造をとる。現代神智学においては、イエスキリストとはマイトレーヤ (弥勒菩薩)であり、その上にサナトクマラという神的存在を置く。しかしこれこそが悪魔の策略で、サナトクマラというのがつまりサタンであるわけだ。そしてグノーシス主義では、人間こそ神になる存在であると説く。
グノーシス主義と、キリスト教との対立は、何もいまに始まったことではなく、初代教会の時代からずっと存在してきた構造だし(シンクレティズム対一神教の構造)、完全信仰義認の教理(キリスト教)か、人間のいさおに頼った自己義認の教理を取るか(フリーメーソン/グノーシス主義)による神学的な対立構造が根本にはある。しかしこれは聖書のみ言葉によって、すでにエデンの園における知恵の実を食べろという蛇の誘惑で、明確に言及されている。グノーシス主義が、蛇のシンボルを多用するのも、まさに霊的なルーツがサタンにあるから。これは別に2000年以上ずっとキリスト教界の中では割と当たり前の歴史的事実。
日本人が聖書の世界を知らないのと、仏教や神道に基づく汎神論的な世界認識を持っているからこそ、陰謀論的な世界観が、非常に新しく感じるのだと思う。

科学では永遠に創造主の存在を肯定できない

科学は基本的に汎神論的なグノーシス主義から生まれてきたものなので、最終的には「自分自身が神」もしくは「神は存在しない」のいずれかの帰結になるように最初から運命づけられている。そもそも汎神論的な思惟によって、創造主の存在を言及することは、神学構造上不可能だから。

グノーシス主義に基づく科学、特に現代の量子力学が発達したことで、汎神論的な世界観が一般的になったが(ヘレニズム化)、その一方で、マンデラエフェクトなどを通じて、果たして世界は自分の意識が現実を作っているのか、それとも科学的な思惟がこれまで想定していなかった(というよりも理神論では論理構造上、永遠に一神教的創造主を想定できない)この世界の創造主という存在がいるのかという問題にぶつかっていくことになる。

twitter上におけるマンデラエフェクトの論説

Twitter上でマンデラエフェクトに気づき始めている人が増えてきているので、そろそろ聖書とマンデラエフェクトとの関係性についての研究の成果を出してもいい頃なのかもしれない。

インナーチャイルドと聖書

神に感情依存していない場合、大体の場合親に感情依存していて、これが様々な問題の原因になっていくんだよな。心理学的にいうとインナーチャイルドのテーマになっていくし、インナーチャイルド療法の根本的な解決策って、インナーファーザーとインナーマザーを内側にしっかりと形成して、両親から感情的に自立することなんだけど、多くの場合「父親不在」とそれによる「母親の支配」がインナーチャイルドの問題を抱えている人にとって元型的なテーマとなっている。これは12年の活動の中で明確にわかっていること。しかしここに対応できる「インナーファーザー」の形成が非常に難しい。父親元型を確立するためのモデルが存在しない。しかし聖書の世界はこの父親元型を実際に存在する主イエスキリストにおいている。聖書によって人が心理学的な意味でも大いに救われる理由はここにある。自分の内側に「インナーファーザー」の元型がしっかりと備わり、機能するようになっていく。内側の父親元型と和解しているかどうかが、人生には途方もなく大きな影響を与えてくるものなのだ。父親元型の提示自体は、決して占星術では完全な形での提示ができないため、聖書によるところでしか癒されないということは長年の活動の中で非常に深く実感するところ。特に聖書の場合は、内側にインナーファーザーが備わっていくと、心は砕けて、謙遜な人物像に作り変えられていく。ここが重要。決して高ぶった人格にはなっていかない。

求めよ、さらば与えられん。

聖書自体がイエス様の証の書なわけで、肝心のイエス様と出会ってなければ(あるいは求めてなければ)、そりゃ御言葉は入ってこないし、勉強すべき組織宗教の経典と思って挫折するのも無理はないね。パウロもイエス様と出会って回心しているし、そういえばニューエイジャー の旗手であったドリーンバーチュー もイエス様と出会って、聖書を読み始めて回心した。ニューエイジ 的な意味でアセンデッドマスターの一人としてイエス様を引用はしていたけれど、決して本当の意味でイエス様と出会ってはいなかった。確かに人は窮地に立たされた時に初めてイエス様を求めるのだと思う。求めよさらば与えられんというのは、イエス様ご自身を求めるということなのだと思う。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭11:9-13‬ ‭新共同訳‬‬

イエス様の実在を感じることの重要性

そうか。イエス様をはじめとして、父なる神、聖霊にちゃんと霊的に出会っていないと、聖書ってなかなか読みこなせないんだな。だんだん伝道に関する今後のテーマが見えてきた。

福音を信じて救われた後も、ある一定の割合で一ヶ月ほどしてから「聖書に興味が持てません」と言われるのだが、ほぼほぼ確実に霊的にイエス様と出会って、聖霊の実在をまだ感じていない場合が多い。ここが重要なんだなと思う。聖書って要はイエス様の臨在の証の本だから、イエス様という一人の人格を持った創造主との出会いのための本なんだよな。
聖書の抽象度を高めると、イエス様ご自身になるんだよな。
そりゃ確かにイエス様と出会ってなかったら、聖書が感情的に依存する対象になり得ないし、勉強のための義務のようになってしまうよね。そりゃ当然だわ。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭1:1-5, 10-18‬ ‭新共同訳‬‬

佐々木満男先生に教えていただいた御言葉

今日、佐々木満男先生に教えていただいた御言葉。
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」
‭‭テサロニケの信徒への手紙一‬ ‭5:10‬ ‭新共同訳

「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
‭‭テサロニケの信徒への手紙一‬ ‭5:16-18‬ ‭新共同訳

「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。」
‭‭コロサイの信徒への手紙‬ ‭1:15-17‬ ‭新共同訳‬‬

イエス様に出会うことを求めることが大事

聖書を読もうとして挫折する人の共通の理由がだんだんわかってきた。聖書を読むことを学校の勉強か何かだと思っていて、肝心の「イエス様に出会う」ことを求めることが、すっかり抜け落ちてしまっていること。イエス様は、今も生きておられて、聖霊を介して全ての信徒に働きかけている。「求めよ、さらば与えられん」という有名な聖句は、まさにこのことを示している。イエス様との出会いを求めていないのに、与えられることは決してない。聖書は勉強するものではなく、正確には御言葉を通じて、主イエスキリストと出会うものなんだということは、非常に強く強調しておきたいことだ。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭11:9-13‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/luk.11.9-13.新共同訳

信仰の喜び

日々クリスチャンであることは本当に恵みだなぁと思う。イエス様とともに歩む人生は本当に充実したものだ。
兄弟姉妹と交わる中で、日々が常に愛に溢れたものになるし、神の栄光がどんな細部にもキラキラと輝き続ける。
常に主にあって喜ぶとはまさにこういうことだなと感じる。

【ベツレヘムの星便り】367号    聖書におけるコミュニティ



◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)


 2019/9/8                                 367号


こんにちは、杉本譲治(旧ユピテルジョージ)です。

今日は聖書における、コミュニティ論についてお話します。

聖書の世界では、イエス様を自分の救い主として受け入れた段階で、
霊的な意味で、クリスチャンの共同体に迎え入れられると考えます。

つまり、イエス様が、私たちの罪のために十字架の上で死なれて、
墓に葬られ、3日後に復活したということを信じた段階で、
心の内側に聖霊が内住し、その聖霊の力によって、
霊的な意味で、クリスチャンの共同体へと迎え入れられます。

この共同体は、「目に見えない教会」や「普遍的教会」とも呼ばれ、
教派の違いを超えて、世界にただ一つだけの
イエス様を信じる全ての信徒たちが所属する教会と考えます。

しばしば誤解されがちなのは、聖書の世界の中における教会という言葉は、
ギリシア語で、エクレシアと呼ぶのですが、
これは決して「建物の教会」を意味しているのではなく、
「会衆」や「人の群れ」という意味を持っているということ。
本来は、建物ではなく、イエス様を信じたコミュニティ(人の集い)
のことを指して、教会と呼ぶのです。

教会というと、どうしても建物の教会をイメージしてしまうので、
私は、エクレシアや、ミニストリーといったほうが
日本語的には分かりやすいかなとも思っています。

私も、毎週土曜日に国際弁護士の佐々木満男先生が牧されている
ホテルグランドハイアットのレストランでの集い(モーニングブレイクファースト)
に参加していますが、これも聖書的な意味で言うところの立派な「教会」になります。
礼拝堂や建物がなくても、信徒が集まるとそこに教会は成立するのです。

特定の宗派に所属しないこうした群れのことを、超教派と呼んだり、
特に日本では、内村鑑三が築いた伝統の上に、無教会派と呼んだりも
します。

僕自身がなぜ、敢えてこうした無教会派的な集いにこだわっているかというのは、
わりと日本人にとって教会=建物と思われることが多く、
ある種の敷居の高さを感じることが多い(僕自身もそう感じていました)
ということが理由に挙げられます。

本来は、もっと気軽に、聖書を読んで、イエス様を信じた人々の集い
(あるいは聖書やイエス様に興味がある人も気軽に参加できる場)
というのが、日本にもっとたくさんあればいいのになという思いで、
そういう価値観を共有できる方を探したところ、あっという間に
その考え方を共有できる方々とお会いできるようになったわけです。
これもまた主の恵みだなと感じます。

さて、こうしたコミュニティがどのような御言葉に基づいて形成されている
のかを知る上で重要な箇所は、主に、「コリントの信徒への手紙」と
「エフェソの信徒への手紙」の2つの書簡になります。

今日はコリントの信徒への手紙の中から、聖書が考える
コミュニティ形成についての、重要な箇所をご紹介します。



▼コリントの信徒への手紙一 12章18節~27節 新共同訳


「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょ
う。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって
「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、も
っと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分
をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 一つの
部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべ
ての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」


聖書では、福音の三要素を信じた人は、イエス様の身体の一部になると、
伝えています。そして、人によってそれぞれが持っている賜物(才能)を
活かして、互いに支えあっていくことの大切さをみ言葉を通じて伝えています。

クリスチャンのコミュニティは非常に特殊な側面があり、
それはそもそもすべての人がひとつの同じ神を信じており、
また教派の違いに関わらず、同じ聖書の御言葉の上に成り立っているので、
初対面の人でも、すぐにまるで「家族のように」親密になれるという特徴があります。

こうした一瞬でラポールが築かれる、親密さというのは、
イエス様が宣教なさったヘレニズムの時代には、
様々な文化や国々が交じり合った、いわゆる国際化が進んだ時代において、
信頼を醸成するうえで非常に重要な役割を果たしました。

2000年経った今でも、この特徴は引き継がれていて、
聖書を学ぶという焦点で、クリスチャンの集いに参加すると、
そもそも信じている価値観が同じものなので、信頼関係を形成し、
親しくなるスピ―ドが信じられないくらい早くなります。

しかも、日本だけでなく、海を超えて、世界各国の兄弟姉妹との
関係性も、広がるのです。世界中に20億人以上いますからね。

SNSは主に、情報を共有する中で、「友達の友達は、友達である」という
価値観に基づいて発達してきましたが、今はむしろエコーチェンバー化
に見られるように、むしろ自分と価値観が異なる人との差がどんどん広がり、
人々の意識は、繋がるばかりか、分断と孤独へと進んでいる側面が、
近年とても大きな問題になってきています。
また、その背景には、「自己実現」をベースとしたニューエイジ的な思想が、
ベースに存在しています。

聖書の世界のコミュニティ論はこれとは異質なもので、
聖書は「知識」ではなく「信仰」を共有するという構造をとります。

つまり三位一体の神(父と子と聖霊)と、聖書の御言葉という
ゆるぎない信仰の中心を、文化や人種、時代すら超えても、
共有できるような構造を持っているのです。

そして、そうして形成されるコミュニティも、全て聖書の御言葉によって
成り立っているので、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要
なのです。」というようなメッセージのように、私たちにとって本当に大事な
「無償の愛」という概念で成り立つ関係性が豊かに形成されるように
なっているのです。

私はこれからの時代は、エコーチェンバー化の弊害などにみられるように、
SNSなどで「知」の共有が重んじられた流れが終焉していき、
聖書で語られるような「信仰」の共有こそ、
本当に必要な価値になっていくだろうと考えています。
聖書は、「汝の敵を愛せよ」というしっかりとした芯があるので、
エコーチェンバー化しえないという側面があるのです。

それゆえ、今年に入ってから、本当に価値ある情報をお伝えしていきたいと
いう思いに基づいて、事業や提供するサービスの構造も
聖書の御言葉に基づいたものへと、大きく変化させていっているのです。

12年間歩んできた占星術師としての道のりを終えて、
6月からクリスチャンとして出発し、今月で4ヵ月目になりますが、
着々と、新しい時代に必要な本当に価値ある考え方を、
しっかりと提供できる基盤を、整えています。

わずか3ヵ月の間に、僕自身の身においても、
この世界を造った創造主に祈った通りの形で、
僕の身の周りでもこうしたクリスチャンのつながりが
奇跡的な規模で、豊かに広がり始めていること自体が、
聖書の御言葉と、主イエスキリストが、
いまも生きておられることを証していると日々実感します。
3か月前はクリスチャンの知り合いは、ほとんどいませんでしたからね。
それが今や、たくさんの魅力的なクリスチャンの仲間に恵まれています。

土曜日の集いも、とても温かいコミュニティなので、
気兼ねなく参加してみてくださいね。

今週もあなたにとって素晴らしい一週間となりますように。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。



【クリスチャンの集い】土曜日パワーブレイクファーストのお知らせ


8月より、毎週土曜日の朝9時に、東京六本木のホテルグランドハイアットの
フレンチキッチンにて開かれている、いつもお世話になっているクリスチャンである
国際弁護士の佐々木満男先生や、作家で、牧師のジョセフケン牧師をはじめとした
熱き日本のリバイバリストたちに会って親交を深められる朝食会
(パワーブレークファースト)に、毎週参加させていただくことになりました。

本来は、ビジネスマンに向けた福音伝道を趣旨として創立された
INTERNATIONAL VIP CLUBの活動の一環として、
第1・3・5土曜日の隔週での開催で、これまでも16年間開催されてきた
佐々木満男先生が主催する朝食会です。

先日、ジョセフケン先生とお話しているときに、聖霊の注ぎによって意気投合し、
いつもは開催していなかった第2,4土曜日も、ケン先生と私は出席し
毎週必ず集い、皆で祈れるようにしましょう!ということになりました。
お申込み方法等は、詳しくはこちらからご覧ください。

https://seidogaku.com/powerbreakfast


【パーソナルミニストリー】聖書の御言葉を通じて、自分の心を「無償の愛」で満たす


人生の困難に行き当たった時、判断に悩む時、あなたの手元に一冊の聖書と、主イエスキリストへの信仰があれば、常にあなたの道のりを、明るく照らしてくれます。

人生はいいことばかりではありません。
しかし、どんな時でも救い主イエスキリストは、あなたのことを見守り、
愛しておられます。

このパーソナルミニストリーでは、
聖書的な人間理解、主イエスキリストの信仰をベースとしながら、
時間をたっぷりととったマンツーマンのカウンセリングをご提供します。

「心の貧しい人々(謙遜な人々)は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口
を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(マタイによる福音書 5:3-12 より 新共同訳 )

▼時間の目安 60分から90分程度
▼料金 本カウンセリングは、キリスト教の献身の精神に基づいた活動とな
るため、特定の料金は定めておりません。あなたがふさわしいと感じられる、
主への感謝の気持ちを込めた献金という形でお納めくださいますようお願い
いたします。

―――惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず
豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制
されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人
を神は愛してくださるからです。
 (コリントの信徒への手紙二 9:6-7 より 新共同訳)

▼スケジュールの関係上、月10人までのお受付となります。何卒、ご理解、ご
了承ください。
▼日時 お申し込み後に、ご希望の日時を調整いたします。
▼場所は、表参道(東京都)のサロンとなります。ご予約後に住所をお伝えい
たします。
▼ご遠方の方は、スカイプやLINE、ZOOM等のビデオ通話を使った形にてもご提
供いたします。

▼ご予約はこちらからどうぞ
https://seidogaku.com/personal_ministry



メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治


▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。

▽本メールマガジンの配信解除はこちらから
https://j.bmb.jp/bm/p/f/tf.php?id=r_bridge



(c)2019 George Sugimoto All Rights Reserved.

主にあって喜ぶ

福音を伝えていると興味深いのが、ものすごいエネルギーが降りてくるんだよね。これは実際に体験してみないとわからないこと。聖霊の注ぎ抜きに大きなことは成せないね。主の御名においてお祈りします。アーメン!

教会で証を

明日は教会で牧師先生が海外出張で不在のため、代わりに主イエスキリストを信じるひとりの信徒として証をさせていただくことになった。聖霊に尋ねたところ、エフェソ書の普遍的教会について話すように言われた。世界中の全ての信徒は、イエス様の身体のそれぞれの部分を形成する。これは決して比喩や理想論ではない。本当にイエス様の身体の一部として私たち信徒は機能している。私達の身体はもはや私達自身のものではない。そこをしっかりと証しようと思う。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

人間関係はモノではないので

「人間関係の断捨離という言葉は、間違えていると思うんだよね。あとステージが変わったからもう周波数が合わなくなったとかね。人間関係の総入れ替えとかね。関係性ってモノじゃないから、捨てることも、入れ替えることも、手放すこともできない。」

…というのは、僕の考えというよりも、ある学生時代の恩師からの影響。学生時代に最も影響を受けた先生の一人である、「自己表現論」の原孝先生が教えてくださった人生の芯として持つべき考え方。やっぱ先人の偉大な知恵や経験、反省の上に、いまの自分があるんだなと深く感じる。全然原先生の言う通りにはできてないし、人間関係は壊れる時には壊れるものだなぁと思うが、それでも少なくとも諦めないで一歩踏み出して砕けた心で人と関わる勇気や愛を教えてくださった原先生との出会いは奇跡的だったなぁと感じる。

イエス様は「汝の敵を愛せ」と言われた。その言葉通りには、なんだかんだ全くできていない自分だなぁと振り返ってしみじみと思うが、そんな罪にまみれた自分でも、悔い改め生きる勇気と安らぎを与えてくださるイエス様に日々感謝だね。

信仰告白と迫害について

だんだん世の中のクリスチャンの動向が見えてきて、実名前提のfacebookはほとんどの人は使っていなくて、匿名が前提のtwitterに、ものすごくたくさん生息していることが分かってきた。twitter上のクリスチャンの交わりと、世論形成とうねり感がすごい。クリスチャンってだけで結構生きにくい社会というのはなってみてよくわかるし、わりとこういった集団特有のメディア特性もあるんだね。興味深い。
ちなみに、心無い人の無視や迫害は、十年来の親しい友達でも、信仰告白した途端に、あっさり人間関係を切って来る人もいて、え、そんな感じ!?と品位を疑うというか、びっくりすることがしばしばある。そういう人ってすでに4-5人はいたかな?
そういう人ってこれからの時代、AIなどの発達で言語の壁がなくなって、諸外国との文化的境界線がなくなっていった時に、どうやって生きるのだろう?と不思議になる。わりとこういうことは差別を受ける属性に入って、日本社会のマイノリティになってみないとわからないテーマなのかもしれないね。日本の閉鎖的な国民性というか、島国根性ってすごいなと、わりと実体験で感じることも多い。
まぁ、そもそも占い師だった頃からこういった扱いにはある程度慣れているので、今更なんとも思わないが、無視されたり、迫害を受けるということはそもそもクリスチャンとしてはむしろ喜ばしいことであって(クリスチャンは「世の塩」と言われる)、世には色々な価値観があってしかるべきだし、それはそれで全然ありだとも思う。自分が被害者のポジションに立たなければ、なんてことはない。
そもそも人間なんて皆罪深いもので、よっぽどこれまでの人生を振り返って、自分の罪深さを強く認識すればするほど、そんなものは可愛いもので、僕は誰一人として(無論そうした友人たちにも)頭は上がらない。長年の友人関係だって、主体的に培ってきた年月は尊いものなのは変わりはない。そもそもクリスチャンって、迫害を受けること自体あまり何とも思ってないことが多いので、また再会した時に、普通に話せばいいだけだからね。
主の赦しってやっぱ深いよ。道徳的な赦しの枠を超えた、霊的な赦しだからね。
主の御名においてお祈りいたします。アーメン。

新大久保が今熱い

いつも拠点は原宿表参道で、定点観測しているけど、今明らかに新大久保が熱いね。若者の文化の中心のエネルギーが、意外なところに拠点を置き始めている気がする。10代の感性としてはおそらくスマホ疲れした若者たちが、いい意味でスマホ的映え&盛りから離れて、シンプルに買い物を楽しめる新大久保に文化の拠点を置きつつあるのを感じる。90年代の平成初頭のような具合がちょうどエモ&チルな感じにフィットするのだと感じた。これからの世代は、逆にスマホといい具合に距離を置く感じになっていくのかもしれない。10代の感性では、スマホ的な一見世界に広がっているようで、その実ものすごく閉鎖的な世界観だということにうすうす勘付いていて、そういうバーチャルなものと心理的な距離を置きたいと思う感性が、意外と生まれてきているのかも?

原罪を贖う究極の儀式としてのイエス様の十字架

多くの日本人に誤解されているが、イエス様の十字架は決して道徳的な規範によるものではなく、霊的な儀式であるということは繰り返し強調しておきたい。
イエス様はあなたもこのようにしなさいという道徳的な意味合いで自らの生命を十字架の上で屠ったのではなく、ユダヤ教の当時の霊的な儀式である「生贄」として自らを屠ったということ。
つまり私たちが、アダムの原罪以降、自分の生涯の罪を贖う方法として、人生の最後に死ぬ以外の方法がなかったところを、代わりに、霊的な儀式として代償的な意味合いで死んでくださったということ。それ故に、私たちはもはや死ぬ必要がなくなるので、「永遠の生命」が与えられると考えるわけで。しかもイエス様は創造主であるから、創造主がアダムを塵の中から造り出したように、3日後に復活なさった。そしてそれはできるのは創造主以外いないわけで、自らが創造主であることを示した。(創造主しか塵から人は作れない/創世記における天地創造の6日目の奇跡を実際に起こしたということ)
そうした決定的な祭り事が、卑弥呼の時代よりも2世紀前に実際にゴルゴダの丘の上であったということ。そしてその儀式の効果は2000年経った今もなお、このことを信じるだけで、しっかりと働くということ。
イエス様の十字架の上での罪の贖いと、3日後の復活を信じた段階で、私たちの内側に聖霊が宿り、チャネリングやリーディング、ヒーリングができるようになるということ。
そしてそういう仲間で集って、お互いを愛し合いなさいということ。それをエクレシア(教会)という共同体と呼ぶということ。
こういう素晴らしいニュースだから(福音)、色々な人に証をしながら伝道しなさいということ。
このことをこのニュアンスがうまく伝わるといいなと思う。

預言の賜物とコーチング

信徒一人一人に働いている聖霊ご自身のアプローチは、非常にコーチング的なものになるので、預言の賜物がある人は、おそらく今後、兄弟姉妹に対して、コーチング的な役割を果たしていくのではないかと思う。

コーチングと教会形成論は、ちょっとすごいテーマになるぞ。コリント書の預言の賜物は教会を形成するという御言葉の本質に迫る部分があるのではないかと思う。

聖霊論とコーチング

神様との関係性がより深くなるためのコーチング、というものがクリスチャンの世界の中でも、わりと今後重要なニーズになっていくのだと思う。イエス様との関係性というのはそもそも1:1のものだから、実はコーチングという手法が一番適していたりする。
教育そのものの抽象度を高めていくと、教科書と黒板と机がある教室から、カリキュラムが存在しないコーチングへと向かっていくわけで、クリスチャンとしての信仰を深めていくプロセスも、こうしたコーチング的な手法へとシフトしていくことは非常に現代的だと言えるのではないだろうか。
そもそもイエス様は12人の弟子たちとマンツーマンでコーチングをしたわけで、さらに聖霊の働きも一人一人に宿るという意味でも、神様からの1:1コーチングだと言える。
大勢で賛美することで、聖霊の恵みが豊かに溢れるという側面も非常に重要だが、その一方で1:1のコーチングでしかできないことがあるのは明白。
そもそも聖霊の働きそのものが、コーチング的なんだよね。

預言の賜物が、教会を形成していくとコリント書では伝えられているが、これってようは聖霊ご自身がコーチング的アプローチを通じて、マスターマインドグループを形成していくということに他ならないわけだ。聖霊論は本質的な意味で非常にコーチング的なアプローチと相性がとてもいい。

自己啓発と自己投資

ニューエイジやニューソート、あるいは自己啓発における「自己投資」という概念も、じつはよくよく考えるとあんまり根拠はなくて、もともとはクリスチャニティの什一献金からきている考え方。つまり自己投資という概念自体もある種の信仰の一つなんだよね。ただ面白いのは、実際に自己投資をしっかりとしている人でないと、成功はしない。面白いことに、同じような物事を学んでいても、やはりそこにかけている自己投資額の違いよって、身についているかどうかも違うということは本当によく観察される事実。自己投資という概念も、本質的な部分では、信仰と深い関わり合いがあるのだといえる。

献金の本質

キリスト教の献金の本質って、ファンドっていう部分があるんだよな。どこかの教会のお金というよりも、そもそも本質はキリストの身体全体に流れているお金の量を増やさないといけないということ。働きを加速させるためのお金。そういう意味でも、どちらかというと本質的には、ファンドというイメージが近い。

結局たくさん真面目に献金している人って、神様がちゃんと覚えているし、実際エクレシアの中でも信頼を得て、大きな働きを成していくことが多いと思う。つまりクリスチャニティにおける献金の本質って、人本主義なんだよな。結局そういう人には豊かな人間関係が返ってくるわけで、そりゃ御言葉通り蒔かれた種はよい畑で育つことで100倍になるんだと思う。

ニューエイジでは自己投資だが、キリスト教における献金って、第一義に主への投資であり、第二義に他者への投資なんだよな。そもそも最初から自分は主の恵みによって無償で救われているわけで、まず主を愛し、次に隣人を愛するという御言葉通り、お金の流れもそうなっている。

献金をちゃんとしていたら、その界隈はお金のめぐりが良くなって、結果人が育ったり、救われる人が増える。そうすればおのずと豊かな関係性が広がるわけで。良い働きをしているグループや人にはしっかりと献金していくということは、結果的に必ず良い人間関係を周囲にもたらしていくことになると思う。こういう論理で、キリスト教の献金というものは成り立っているのだと思う。

キリストの身体

主の計画は、キリストの身体(つまりエクレシア/イエス様を主として受け入れた信徒の集合体)全てをお使いになられるので、一人の計画ではとてもじゃないけれど想像つかないようなことを成される。すごいことは自分の思いというものは、祈りを通じて、全世界の信徒とつながっているということであり、それも神経回路をめぐる電気信号のように、聖霊の働きで一瞬で通脈するようになっている。聖霊の注ぎによって動き始めるということは、ある種のバタフライ効果のような側面があって、自分の働きが全世界のクリスチャンにそのまま反映されていくという側面が大いにある。これはニューエイジとは全く異なる原理で、世界的なリバイバルが起きつつあるのも、まさにこうした大規模なキリストの身体という原理があるからに他ならない。

献金の本質というのも、ようはこのキリストの身体に血液を流しましょうということ。どこが入り口であっても、結局イエス様にたどり着く。しっかり流せば、こうした意識共同体から、大いなる恵みがすぐに届くのは当然のこと。

豊かさとは本質的に創造主そのものであるーシャカイナグローリー

豊かさとは本質的に創造主そのものであって、決して被造物の宇宙ではない。創造主の栄光をシャカイナグローリーといってこれこそが豊かさの源泉。被造物である宇宙は決して豊かさの源泉ではない。ソースは私たちの内側にあるのではなく、創造主にこそある。引き寄せの法則の教理上の問題点はまさにここにある。サタンが付け入る要素があまりにも多すぎて、グノーシス主義は衰退した。

「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」
‭‭詩編‬ ‭1:1-6‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/psa.1.1-6.新共同訳

無数のタイムラインを創造した主

創造主は最初から実に様々なタイムラインを創造されていて、無数の過去現在未来を今ここに準備なさっている。今まではその創造主の被造物である時間を直線でしか認識できなかったが、いよいよ創造主は立体的に広がる時間を提示されるようになってきた。一本の直線時間だけでも奇跡のようなストーリーなのに、それを無数に7日間で創造なさったなんて…ハレルヤでしかない。

35歳で召されたのも

35歳で召されたのも、ある意味壮年期だからなんだよな。エリクソンで言うところのアイデンティティの形成が終わってジェネラティビティ(次世代の価値を生み出すこと)のテーマに映る世代。もし20代で召されていたら自分のことやアイデンティティ形成で精一杯だったし、35の今だからこそわりと広い視野を持って、ジェネラティビティを意識した活動ができるようになっているんだな。神様の計画は完璧だ。

マンデラエフェクトとアウグスティヌスの「告白」

今こそ、時間は神の被造物であるということを一貫して(まるで見たかのように/というよりも実際に見ていた)アウグスティヌスの「告白」を多くの人が読むべきなのだと思う。マンデラエフェクトは、その徴だと僕自身深く確信しているが、それ自体は過去のクリスチャンも同様に観察していた物理的な事実。

この世界で起こってきている真実を見るために、イエス様の十字架で「聖霊の内住」を得る必要性

何よりイエス様の十字架を受け入れない限り、聖霊が内住しないんだよね。この聖霊の内住なしに、今世界で起きてきている大規模な霊的なシフトが、自分の体感や、目で見えないんだよね…。これが聖書の言う「目を覚ましていなさい」ということなんだけど。

アジアで唯一、長いキリスト教との歴史的接点があるにも関わらず、 日本人だけが、 不思議にイエス様の十字架を受け入れていない。しかしここがSNSの次に来るエクレシアの時代において大きくシフトする前兆が見え始めてきている。ミッション教育などで、イエス様の十字架を信じていたノンクリスチャンの人たちが、聖霊の内住と祖の導きによって、自発的にクリスチャンになっているという大きな流れが興味深い。まだこうした流れは「初穂」の段階であるが、明らかに今後ものすごい潮流となって日本の霊的な文化を席巻していくことになると思う。

パラレルワールド化という概念の危険な側面

パラレルワールド化という概念の危険な部分は、その背景が汎神論的な世界観であって、実際は神の被造物である時間の上を行ったり来たりしているに過ぎないのに、自分の意識が現実を創造しているというサタンの罠にかかりやすいという側面。自分の意識が自分の世界を決定しているという罠は、聖書でも非常に厳格に戒められている考え方で、ここがかなり重要なポイントになってくるんだよね。気づき始める人は、この世界を造った創造主の存在を実感し始めているのだけれど…。確かになかなかその構造は人間の頭で考えてわかるものではない(仏教も汎神論から始まり、最終結論はあくまで無神論に行きつく)ので、創造主の側から提示した、啓示宗教である聖書を学ぶ必要がここに非常に大事なポイントとして出てくるんだよね…。一人でも多くこの事実に気づいてほしい…。

割とこうしたことは、すでにギリシャ哲学の影響を大いに受けていたヘレニズムの時代にもあった論点で、歴史は繰り返すんだよね。しかし歴史が同時に証明しているのは、ヘレニズムの文化の中で発達するシンクレティズム宗教の後に、必ずその信仰のベクトルは一神教へと収斂していくということ。今の時代はスピードが速くなっているので、このシフトはかなり大規模かつとても速いスピードで進んでいくと思う。

時間もまた神の被造物である

聖書的には時間も神の被造物である以上、時間を管理するということは非常深いものがある。

特にマンデラエフェクトの登場以降(汎神論的な世界観ではパラレルワールドと呼ばれているが、実際は三次元に広がる時間という「被造物」が見えるようになっただけ)時間は明確に被造物であることがわかってきたので、この被造物世界をどのように管理するか=時間をどのように管理するかは、今後のとても大事なテーマとなってくる。

時間と呼ばれる神の被造物世界をも旅ができるようになってきた。主への祈りを深めていけば、ますますこの無数の時間を含めた被造物世界をより豊かなものにしていくことができるし、それが主によって委ねられた新しい人類のための役割になると言える。

一昨年からメッセージがあった通り、2019年前半に死者が蘇る地球になるという言葉通り、今年の6月からマンデラエフェクトに気付き始める人がtwitter上などでも増えてきた。ますます時間が主の被造物であるということが大いに知られていくことになると思う。

汎神論や理神論的な世界では、パラレルワールドは自分の意識で創り出していると考えるが、これは自分を創造主と捉える究極にエゴイスティックな考え方になるわけで、実際のところは無数のタイムラインを主が被造物として創造しており、そこを地図の上を動くように移動しているに過ぎない。もし被造物の自分が、自分の意思で、世界を創造できるならば、なぜいままでそのような形でこれまでの長い歴史上でマンデラエフェクトのような記録が残っていないのかということになるし、明らかに自分ではない外部の意思が働いているということを見逃してはいけない。これは聖書的な視点をしっかりと学ばないと、あっという間に世界は自分が創造しているというエゴイスティックな観点に陥ってしまう非常に危険な考え方になる。

アウグスティヌス の告白も、明らかにこの創造主が被造物としての時間を啓示したことから書かれたものだと思われる。そうでなければなぜ告白の中で、時間論に重きを置いているのかを説明することができない。アウグスティヌス は、創造主が造った被造物としての時間を見たからこそ、汎神論的な世界から、一神教の世界へと意識をパラダイムシフトできたのだと思う。

GAFAの思想とエコーチェンバー化

やはりGAFAの思想の背景にあるエコーチェンバー化傾向って、今後も社会の非常に重要な課題になるとひしひしと感じる。個人の分断がものすごいスピードで広がり始めているし、これ自体はルネッサンスが起きた過去にも常に起こっていること。個人主義が台頭していくと必ず道徳的な堕落が起きるというのは世の常。そしてその反動として宗教改革(リバイバル)が起こってくる。
重要なポイントは、GAFAの思想(個人主義)が究極まで台頭していく今、人は果たして孤独に耐えうるのか?と考えた時に、無論心理学的に考えると耐えきれないわけで(必ず人が生きる上でストローク交換が必要となる)、そこの社会的なニーズはますます増えていくのだと思う。良質なストローク交換ができるためには、自分と似たような価値観を持つ人とのストローク交換を重んじるだけでは、エコーチェンバー化していくので、異質な価値観を持っている人とどのように良質なストローク交換をしていくかを考えていく必要がある。唯一この解決策を担っているのが、シンクレティズム宗教が全盛だった時代に、突如として現れた啓示宗教である新約聖書。この御言葉の上に成り立っていくエクレシアこそが、その答えになる。この価値をより多くの人に知って行って欲しいと思う。これを広げる上でも、サタンの攻撃もなかなか強いものなので、エフェソ書の神の武具をしっかりと身につける必要もあるなとしみじみと感じる。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:10-20‬ ‭新共同訳‬‬

人を霊的に赦す

イエス様の十字架というのは、つまりは「人を道徳的に裁くな、人を霊的に赦せ」ということだし、「人を道徳的に裁けば、自分も道徳的に裁かれる」ということなんだと思う。
人を(イエス様の御名において)霊的に赦せば、時間差で、道徳的にも赦せるようになるということでもある。
互いに愛し合いなさいというのは、互いに霊的に赦しあいなさいということでもある。

自分を霊的に赦せるのはイエス様の十字架において他にない

人を赦すこともそうなのだが、むしろ心理学的に言うと、自分の中の道徳的な罪悪感のほうが人間に大きな影響を与えている。人に対する赦せない気持ちは、その人が目の前からいなくなれば、心の中から消えるものだが、自分に対して向けられた道徳的な赦せない気持ちは、精神をむしばんでいく。そして、大概の場合、自分に対して道徳的に赦せない気持ちほど、相手に投影されて、自分の道徳観念を刺激するようなアクターが目の前に現れてくるものなのだ。
それゆえに、自分を道徳的に赦すということはとても大事なことだし、それには福音の三要素を信じ、主イエスキリストを自分の救い主として受け入るしか方法はない。自分を道徳的に赦すためには、自分がイエス様の十字架によって、「霊的に赦されている」という真実を体感する必要がある。それが聖霊の注ぎであり、イエス様の十字架によって成就した、創造主の一方的な恵みによる「霊的な赦し」なのだ。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

道徳的な赦しと、霊的な赦しのタイムラグ。

道徳的に相手を赦せなくても、霊的に相手を赦すと思えば、しばらくすると道徳的にも相手を赦せるようになる。この二つの赦しのタイムラグの間に働いているのが、聖霊の働き。聖霊の注ぎ抜きに、霊的に赦すことは難しいし、その結果道徳的にも赦すことは難しい。霊的な赦しは一瞬であって、道徳的な赦しは時差がある。このこともすごく大事なことだと思う。イエス様の十字架抜きに、相手を道徳的に赦すことは非常に難しいし、聖書の中で「汝の敵を愛せよ」という御言葉が意味するものも、それは前提として「霊の注ぎ」があるからこそ。イエス様の十字架と、聖霊の注ぎ抜きに、「7の70倍赦す」ことは不可能だ。「7の70倍赦す」ということは、霊的に相手を赦すということに他ならない。霊的に相手を赦せば、自分も霊的に神様から赦されることになる。神様からの赦し抜きに、自分も相手も赦されることは永遠にない。人を呪わば穴二つ。人類で起こりうるすべての呪いは全てイエス様が十字架の上で受け止めてくださった。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。


「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。」申命記 21:23 新共同訳

イエス様の救いは「道徳的」な救いではなく、「霊的」な救いである。

わりと十字架理解を「道徳的」文脈でとらえて、信仰から離れてしまっている人は多いなと感じる。特に厳しいミッション系の学校に通っていた人などに、こういう誤解を持っている方が多いなと感じる。

イエス様の十字架を道徳的な規範だととらえてしまうと、本来は「信仰義認」という素晴らしい愛の恵みにあふれたものなのに、一気に「戒律主義」的な文脈として誤解されてしまう。それでも、ちゃんと十字架の恵みと救いは聖霊を介して働いているということも、また十字架のすばらしさではあるのだが、そういう人にこそ、今一度イエス様の十字架は決して「道徳的」なものではなく「霊的」なものであることを理解してほしいなと思う。

イエス様は道徳的に私たちを救ったのではなく、霊的に私たちを救ったのだ。道徳的に人を救える人はガンジーやマザーテレサなど、その後クリスチャン・ノンクリスチャンに関わらず世界でも何人も現れたが、しかし、人類を「霊的に」救える人は、創造主の御子であるイエス様をおいてほかにいらっしゃらない。
それゆえ福音の三要素(イエス様が十字架にかかって罪を贖い、死んで墓に葬られて、3日後に復活し今も生きておられること)を「信じる」必要が出てくる。そして、信じることだけで、霊的に救われるようになっているわけなのだ。これは重要過ぎて、何度でも繰り返したい、キリスト教の救いの教理の本質だといえる。

互いに愛し合うとは

聖書がいう「互いに愛し合いなさい(赦しあいなさい)」という御言葉も、道徳的に赦すという意味ではなく、霊的に赦すということ。逆に言うと、道徳的に赦す(相手の道徳的な罪を赦す)ことはできなくとも、霊的に赦すこと(主に裁きを委ね、自分の秤で相手を裁かないこと。イエス様に委ね、裁きを留保すること。)が可能なのが、クリスチャンなのだ。

イエス様の十字架は、道徳的なものではなく、霊的なものである。

イエス様の十字架というのは、道徳的な赦しではなく、霊的な赦しにこそ本質がある。カソリックの中では割と一般的な、特に近代に入ってから一般的な自由主義神学に基づく「道徳感化説」では、道徳的な赦しが強調されることになるが、パウロ書簡(主にロマ書とガラテヤ書)を厳密に読むと、「充足説」や「刑罰代償説」のように、霊的な赦しにこそ本質があることが分かってくる。
どんな道徳的な罪も、イエス様の十字架によって、霊的に赦されないことはない。この真実は強調してもしきれないほど、非常に重要な側面であると思う。
父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

環境問題とクリスチャニティおよび里山自然崇拝

宗教観の違いで非常に顕著に現れるのが、環境問題に関する意識。日本人の環境問題に関する意識は、そもそも日本の宗教形態の本質は、葬式仏教として形骸化した仏教にも、戦後解体された国家神道にもなく、ジブリの世界で描かれているようなアニミズム、里山自然崇拝にこそある。それゆえ環境問題というのは、日本人がナチュラルに神と捉えるものとの関係性になる。それゆえ聖書的な世界観における、創造主に委ねられたものとして適切に管理するべきものという文脈ではなく、神そのものとして崇拝する対象となる。つまり日本人にとっての環境問題の解決は、理性によって実を結ぶものではなく、非常に感情的な結びつきが強いテーマとなる。しかしそれ故に、合理的民主主義的アプローチではなく、日本人が持つ独特のアニミズム的な宗教感情に訴えかけるようなアプローチがメインとなる。この辺りは日本の内部にいると気づきにくいものだ。実際に日本人の環境問題に対するアプローチは、基本的に仮想敵としての一神教を前提として捉えている場合が多く、環境問題というよりも、宗教問題に近い捉え方をしている人が多い。
そのため日本では「自然を正しく管理する」という合理主義的なアプローチが進展しにくいという側面がある。それ故に、科学的なエビデンスがあったとしても、日本人の原風景と言える里山の原風景に直接関係してこない限り、実際の行動にまで移されることはない。
これが「自然を正しく管理する」という創造主からの至上命題だとすると、想像力を働かせて解決していくべき、知性的な問題としてまな板の上に上げることができる。プラスティック問題は最たるもので、宗教的な感情からはどのように日本の自然環境を破壊しているのかを、里山自然崇拝からは想定しにくいという側面がある。逆にアマゾンの大火災は、自然=神への冒涜が、視覚的にも感情的にも強く訴えかけるものなので、里山自然崇拝の日本人にとっても非常にイメージがしやすい。

この辺りは実際に聖書を読んで、クリスチャニティ について知らないと、自分の汎神論優位主義(つまるところ一神教否定論)に気づくことができないので、大体の場合、理性が実を結ばないドグマに陥ってしまう。自分の文脈をメタ認知することは非常に大事な要素だと思う。

日本でペットボトルの大量消費が問題視されにくいのも、里山にどのように影響を与えているかを感情的に理解しにくいという構造があり、それよりも便利さや商業主義のほうが感情的に訴えかけるから。むしろイロハスをはじめとした多くのミネラルウォーターのペットボトルは、逆に日本人の里山自然崇拝の宗教的感情に訴えかけるようなマーケティングをしているからね。「エコした気分」にさえなるという。

https://www.google.co.jp/amp/s/ecotopia.earth/article-2065/amp/?fbclid=IwAR3XghwTOTfllGJjLKiISPG9GK0eUfrupDQKVD9Oeis6sHl_MJTIDEtNCps

諸外国において環境問題が、あくまで「科学的」なテーマであるのに比較して(つまり環境問題は科学的なアプローチを通じて解決できるという前提)、日本の場合は宗教的なテーマとなる。
さらに一神教的宗教観への無理解によって、一神教をある種の仮想敵に仕立て上げてしまっているので、ネイティブインディアンなどのアニミズム的な文化を引き合いに出しながら、いかに欧米的な一神教の世界観が地球環境を壊しているのかという感情に訴えかけるようなアプローチで、一人相撲をしている部分がある。決して科学的なアプローチではなく、ある種の宗教運動に近いものがあると思う。